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【製本記】 飛ぶ教室 04 | 描きたくはないが描かねばならないものを描きつづける

本をつくってばっかの日々。編集者として本を編みながら、時間を見つけては製本家として本をこしらえている。編集した本は世にでて光を浴びるが、製本した本は暗所に埋蔵するだけの習作も多く、せめてここに記録する。

目引きを終えた『飛ぶ教室』を糸でかがる。「かがり台」に支持体の麻ひもを垂直に張り、この麻ひもに折丁を沿わせ、針を運ぶ。きちんとセットできてさえいれば、かがりの作業は淡々と進む。

かがりながら、ふと挿絵に見入る。『飛ぶ教室』に収められた挿絵は10点。どこかとぼけた感じのする線画たちは、こちらのイマジネーションを心地よく刺激する。読み手を置き去りにしない、やさしい余白のある挿絵だ。


挿絵画家の名はヴァルター・トリアー。小気味よくきびきびとしたエーリヒ・ケストナーの文章と、柔和で、いい意味で力の抜けたトリアーの絵は不思議と相性がよく、二人は「名コンビ」と呼ばれた。

ケストナーとトリアーが出会ったのは、1928年。いわゆる「ナチス前夜」だ。ケストナーは諷刺詩や演劇評論が売れはじめた若き文士で、まだ子ども向けの作品は書いたことがなかったし、書く気もなかった。ところが、この若者には児童文学の才があると見抜いた編集者がいた。エディト・ヤコプゾーンという女性で、彼女が「あなたの書くものには子どもがよくでてくるわね。子どものこと、よく知っていらっしゃる。あと一歩よ。子どもについて書くだけでなく、子どものためにお書きなさい」とケストナーを説得したとか。いやぁ、こういうの、編集者の憧れだよね。こうしてケストナー初の子ども向け小説『エーミールと探偵たち』が生まれ、ヤコプゾーンはその挿絵を、当時すでに売れっ子だったトリアーに依頼した。

ケストナーとトリアーは、でこぼこコンビだ。歳は9つ離れているし、キャラクターも正反対。ケストナーは眼光鋭く、小柄で、引き締まった身体をしている。トリアーはニコニコしている写真が多く、のっぽだ。作風をとってみても、ケストナーは歯に衣着せぬ物言いが魅力だが、トリアーは浮遊感のあるファンタジックな描写が得意だ。

それでも、二人には共通点があった。それは「ユーモア」だ。いつもと違う角度から物事を眺めることで、おかしみが湧いてくる。そのおかしみが、物事の本質をあぶりだす。ユーモアは、暗い時代の渦中にあってなおその威力を発揮し、二人はユーモアでもって読者と心を通わせた。


実際、トリアーの絵は、まるで笑っているみたいだ。微笑んでいる人を見ると思わず微笑み返してしまうみたいに、トリアーの絵を見ると、いつのまにか口角があがる。ケストナーとつくった絵本『動物会議』なんて、まさにそう。もちろん、あの絵本が誘う微笑みは、ハッピーなだけでなく、皮肉だったり自嘲だったりもするのだけど。とはいえ、トリアー自身、ニコニコあるいはニヤニヤしながら絵筆を握っていたんだろうなと思わせる。

しかし、そんなトリアーも、常にニコニコと絵を描いていられたわけじゃない。描きたくはないが描かねばならないものを描きつづけた時期があった。


トリアーは、オーストリア・ハンガリー帝国の州都プラハ(現・チェコ共和国の首都プラハ)で、裕福なユダヤ人家庭に生まれた。絵を志し、19歳でアートを学ぶために渡独。その後ドイツで成功して、ケストナーに出会う。

ところが、ナチスの台頭によりユダヤ人の迫害がはじまる。身の危険を感じたトリアーは、40代半ばにして家族とともにイギリスへ亡命した。異国で築きあげた地盤を、自ら手放す決断をしなくてはならなかったのだ。

腕のいいトリアーは、渡英後も仕事には困らなかった。ただ、この卓抜したイラストレーターにイギリス情報省から白羽の矢が立ち、新聞や宣伝ビラに反ナチスの諷刺画を描いてくれ、と頼まれた。当然ながらトリアーは反ナチスだから、信条に反することをするわけじゃない。これで迫害が止むなら、戦争が終わるなら、という思いがあっただろう。それでも、あたたかなユーモアや幻想的なファンタジーを真骨頂とする画家にとって、血なまぐさく攻撃的な絵を何百枚も描きつづけることは、しんどいことだったに違いない。


ケストナーが「禁じられた作家」として自由な創作活動を制限され、児童文学作品の中にドイツ国民への叫びを忍ばせていたことは、以前書いたとおりだ。同じころ、相棒トリアーもまた、自由な創作活動をする時間を削って、反ナチス画を描きつづけていたというわけだ。暗い時代の表現者は、それぞれに何と厳しい道を歩んだことか。彼らの生きざまを知るにつれ、ものをつくるとは一体どういうことだろうか、と考える。

ものをつくることは、どう生きるかを表明することだと思う。それは、小説や絵画に限ったことじゃない。編集者がつくる本も、製本家がつくる本もそう。家具職人がつくる椅子も、農家がつくる米もそう。もっといえば、毎日の家庭料理も、ベランダで育てる野菜もそう。わたしたちの生活に数多あふれる「つくる」という行為は、すべて、その人の生き方の表明だ。

自由に表現することがむずかしい時代に生きたケストナーやトリアーは、それぞれの場所で最善だと信じるものづくりをした。彼らに対し、わたしは真当なものづくりをしていると胸を張れるだろうか。「らくちん」とか「時短」とか「無難」とか「売れる」とかいうことばに流されていないだろうか。あぁ……「胸を張れるときと張れないときがあります」というのが正直な答えだ。でも、何をどうつくるかを(比較的)自由に選択できる時代生まれたからこそ、もっと真剣にやらなきゃいけない。

さて、かがりは順調に進んだ。最後の折丁まできたら、ケトルステッチをして終了。かがり台から外し、ノンブルに狂いがないか確認する。よし、大丈夫。わたしはまず、真当に本をつくることからはじめよう。


●『動物会議』エーリヒ・ケストナー/ヴァルター・トリアー 絵/池田香代子 訳(岩波書店)


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