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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(12)キリスト教と文化研究所

人生には「仕事」と「愛」が必要だと、精神科医のフロイトがどこかで書いていました。これは、若い人であったら、恋人と勉強(勤労)と言い換えることができるかもしれません。家庭と会社という人もいるでしょう。私の場合は、仕事場としての学校と、妻子のいる家庭でした。ささやかな自分の人生をふりかえるとき、フロイトのこの言葉は真理だと思います。

しかし、私には、家庭と職場のほかに、第三の場所が人生には必要であるという気がします。人生という大がかりな建造物は、やはり2本脚よりも3本脚の方が安定するのではないかと思うのです。
第三の場所は、多種多様な在り方をしていて、趣味の世界である人もいれば、ボランティア、あるいは各種生涯学習機関における知的学びかもしれない。一人旅かもしれない。便宜上「場所」という言葉を使いましたが、それは物理的な空間であるとともに、音楽のようにわが身を抱擁する時間でもあります。

私の場合、人生における第三の世界は、一言でいうならば、文学であり、もう少し具体的に申せば、評論や研究の領域でした。そして、職場で無理な働き方をして倒れる前、その「第三の世界」でも、地道に少しずつ開拓を進めていました。それは趣味の世界でも、知的好奇心を満たすための世界でもなかった。自分という人間の存在根拠にかかわる領域でした。

昨年亡くなった評論家西部邁さんが創刊した「表現者」というオピニオン誌に投稿した「大転落」という評論が、創設された表現者賞に奨励作として入選しました。現在、この雑誌はリニューアルして「表現者クライテリオン」となっています。理念としては、偏狭な排外主義や差別主義を退けつつ、反グローバリズムとパトリオティズムを接合しようとする独自の路線をとろうと努力しているように見えます。ついでながら、私は「保守」という言葉を、「右翼」「左翼」という言葉と同様、日常でも文章でも基本的に使いません。これらの言葉は、議論を鮮明にするよりも混濁させる場合が多いと考えるからです。

台湾の政治情況を分析した教授の当選作のみ、全文が掲載されたので、私のテクストは未発表です。ポストコロニアルの立場にある現在の私から見れば批判すべき箇所が多い内容なので、今後もこの評論の公開は考えておりませんが、内容は、日本に難民や移民が流入する時代における保守思想の在り方について考察したものでした。構造改革路線を一貫して進めることによる日本の没落と、近隣国の崩壊による難民発生の可能性と移民の増加を念頭に置いたものでした。手探りの拙い思索ではありましたが、それを文字通り奨励してくださった選考委員の方々には、今でも感謝しています。

「表現者」では、書評などをいくつか書きましたが、文芸以外の評論を書くには、いかにも勉強が不足していましたし、何よりも、健康を損ねてしまったということがありました。しかし、現在きわめてホットな話題となっている移民難民問題を日本の現実に結び付ける着想は、現在の私の社会的関心のありかとも響きあうものがあります。カトリックの評論家犬養道子さんの仕事に強い関心を抱いていたこともあると思います。彼女は、世界史という豪華な絨毯の裏側には多くの難民がいると、どこかで書いています。

その翌年には、それまでに書いた文芸評論をまとめた『須賀敦子と9人のレリギオ』という本を出しました。友人の大学教授が出版社を紹介してくれたのです。「カトリシズムと昭和の精神史」という副題があるように、作家、評論家、哲学者、科学史家など、さまざまな人たちをとりあげた本です。この本を手にしてくださった方々から届いた読者カードに、どれだけ私は励まされたことでしょう。現在のように、Twitterで著者と読者とがダイレクトに繋がる時代では、まだなかったのです。

自らの知的営みを書物という形でパブリックなものにしないと、研究者は推進力を失うと、今道友信教授が語っています。そのとおりです。どんなに拙い思索であっても、論文にすることは大事であり、論文をまとめて書物にしなければなりません。そこから次の展開が生まれるからです。

その本が出る頃に、私は母校のひとつである二松學舍大学の附属機関である教育開発センターの客員研究員になりました。研究助成があり、高等学校国語教科書について調査しました。科目「現代文」の全社教科書に収録された翻訳作品に着目し、国(地域)ごとの偏向を明らかにしようと企図したのでした。高等学校「現代文」教科書の教師用指導書の執筆もしていたことから、国語教育への貢献もこの時期の私は考えていたのです。2年間務めましたが、健康を害したこともあり、納得のいく詳細な分析ができないまま、任期を終えました。

学校での仕事のかたわら、こつこつと在野で研究を続けていたことから、二松學舍大学教育開発センターの客員研究員になった翌年、ある方のお口添えで、関東学院大学に付属するキリスト教と文化研究所の客員研究員になりました。私が博士論文を書き上げることができたのも、この研究所での発表や、年報への論文投稿ができたからです。学位を取得した今、研究機関に所属があったことのありがたさを改めて痛感します。
研究紀要を出している県立高等学校がないわけではありませんが、ごく少数です。また、論文を投稿できる、国語科の教員で組織している国語部会の年報がかつてはありましたが、現在ではありません。

ところで、関東学院大学は、カトリックではありませんが、キリスト教の学校です。ここで私とキリスト教との関わりについても書いておくことにします。
家族や親戚にキリスト教信徒がいたわけではありません。キリスト教の幼稚園に通ったわけでもありません。高校生のころから、西洋文学や美術(いわゆる絵画のみならず、教会建築や彫刻などを含みます。)を通じてカトリックに傾斜していったのでした。

二松學舍大学の学生時代に、ゼミナールでは中国古代の世界に沈潜していましたが、現代の文学には親しんでいて、カトリック作家小川国夫さんの、古代パレスチナを舞台にした『或る聖書』や『血と幻』に圧倒されていました。また、ギリシア正教徒詩人鷲巣繁男には、傾倒といっていいほどその世界に引き込まれました。彼のエッセイのなかには、ゴンゴラやセーヴ、ミロスなど、耳にしたこともない詩人の名前が登場しました。インターネットがない時代です。私は一所懸命にそれらを調べました。

饗庭孝男教授の信仰告白的な著作『石と光の思想』や『絶対への渇望』と出会ったのもその頃のことで、『聖なる夏』に始まる、気品のある文章で綴られたロマネスク紀行にはとりわけ魅せられました。饗庭教授は1930年生まれですが、この世代で活躍するどの文芸評論家よりもカトリックに理解のある方だと私は思いました。

東京の街を歩いていると、教会がふいに姿を現すことがあります。門扉は必ず開いています。初めての教会であっても、私は堂内に入ることがありました。そして腰を下ろし、黙想するのでした。
気がつくと、私の周囲には、次第にカトリックの知人が多くなっていました。キリスト教も、かつての戦争と同じように、生きた人たちをとおして、私のもとにやってきたのでした。小川さんも、あるとき、自分はキリスト教と出会ったというよりも、人と出会ったと私に語ったことがあります。

しかし、今にして思うことがあります。小川国夫、鷲巣繁男、饗庭孝男のキリスト教は、古代と中世に強烈な照明があてられており、現代に続く近代という時代が、なぜか稀薄なのでした。私のキリスト教に関する興味と知識もまた、近代以前に偏っていたのです。近代のキリスト教が、帝国主義、植民地主義と骨がらみであったことに、若き日の私は切実な関心を払わなかったのでした。
(続く)

*写真は、横浜市内で営まれた饗庭孝男教授の葬儀のときのものです。

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