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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(17)組み込まれた体制の周縁部を生きる

中心と周縁という分析概念は、文化人類学者の山口昌男さんが広めたものです。排除されるものとしてそれまで否定的に捉えられてきた周縁部に山口さんは注目し、中心を活性化させるものとして、そこに積極的な意味を見出そうとしたのでした。そして、自分の人生をふりかえるとき、私は常に自分が中心ではなく周縁に生きて来た気がするのです。

あるとき、信頼する知り合いの大学教授から、私の研究が「境界的」であると指摘されたことがありました。いわれて初めて気がついたことでした。「制服を着た文章」(これは比較文化学者西川長夫さんの博士論文『フランスの近代とボナパルティズム』のあとがきにある言葉です。)である制度的な学術論文と、即興性や論理の飛躍、想像、暗示や韜晦までもが魅力の文芸評論。その境目はグラデーションになっていて、私の研究は両者の谷間にあるというのです。しかし、それは私を批判しているのではなく、保守的な学会の抵抗があってもめげずに頑張れということなのでした。

思えば、大学から大学院に進んで論文を書き、学位を得て、それを書物にする、というのが研究者のスタンダードな、つまり中心的なコースでしょう。私は、最初に単行本を出版し、それから論文を書き始め、最後に大学院に入学して学位を取得しました。順序があべこべです。そして、アカデミズムにおける所属は、大学の専任教員ではなく、非常勤講師ですらなく、附属研究所の客員研究員です。

また、私が研究領域としているのは、キリスト教文学という、日本近代文学における周縁的な領域です。さらに、研究対象としたのは、八木重吉でも山村暮鳥でもなく、鷲巣繁男という周縁的な詩人なのでした。博士論文こそ、現在ではカノン(正典)といってよい遠藤周作で書きましたが、その研究手法はポストコロニアリズムという、遠藤研究では周縁的な方法なのでした。

私がこれまでに書いてきた書物についても、学術的な専門書か、それとも学生や社会人を対象とした一般書かと問われれば、両者の中間領域、境界線上にあるというのが、いちばん誠実な回答であると思います。

高等学校の教師としてはどうでしょうか。校内人事では、教務でも進路でもなく、長らく生徒指導でした。教育委員会勤務時代は、教職員課や学校教育課ではなく、文化財保護課でした。文部省時代も、初等中等教育局ではなく文化庁でした。ずっと、組織の中心ではなく周縁的な部署にいたのです。

さらに遡れば、二松學舍大学で漢文を専攻したのも、漢文のなかでも古代を専攻したのも、現代では周縁的な学問領域だといえなくもないでしょう。高校教師になってからの自己再教育は、慶應義塾大学も、放送大学も、遠隔教育システムでの学びであり、通学制という中心から見れば周縁的な方法でした。

そう生きようとしてそうなったわけではありません。知らず知らずのうちに、そのように生きてきたのです。もっとも、人生すべてが周縁だったということはなくて、地方都市ではなく横浜に在住しているという点などは、中心(東京)に近いところにいるといってよろしいでしょう。

また、私は地方公務員であって非常勤職員ではなく、学会に所属する研究者であって、世間一般の愛好家ではありません。何がいいたいのかというと、私は堅固な体制(システム)のなかに組み込まれた社会的存在であって、そこから排除された存在、追放された存在ではないということです。

体制のなかの周縁部にいること、そこにおそらく私の独自性と限界があるのだと思います。世の中には、組織に属することなく、筆一本で生きる評論家も、少数とはいえ存在するからです。加藤周一さんなども、海外を含め、いくつかの大学に関わったことはありますが、彼の場合は、大学教授が評論活動をしていたのではなく、評論家が大学教授をしていたように見えます。

私は地方公共団体の公務員として、政治的活動などの制限のなかで社会生活を営んでいます。神奈川県の政策に関する批判的見解を個人として持ったとしても、これを言論で公にすることはできません。しかし、教育職である私は、学会誌への論文投稿は県教育長の許可を得ることなく自由にできます。新聞雑誌への寄稿や著書出版についても、謝金に関する兼業許可を事前に申請して許可を得れば問題はありません。大学等への出講も同様です。

ところが、同じ公務員でも、警察官(都道府県警察職員)や自衛官(特別職国家公務員)が個人として論文を学会誌等に投稿することは、身近な関係者の話を聞く限り、それほど簡単なことではないようなのです。職務上知りえた情報が、公共の安全秩序や国家の安全保障に直結する職だからなのでしょう。語るべきことがあるのに語ることができないという意味で、彼らは言論の世界から排除されているサバルタンということができるのかもしれません。

ところで、noteは、果たしてメディアの中心なのでしょうか、それとも周縁なのでしょうか。著名な作家や学者、ジャーナリストが執筆しています。私のような、世界の片隅にいる研究者もおります。noteは、中心 / 周縁という分析概念が通用しない、全く新しいメディアなのでしょうか。
(続く)

*写真は、私の著書にある、英文の著者略歴です。
 

 

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