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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(13)メンターについて

今回は、社会に出てからの私のメンター、わかりやすくいえば、理想の兄のような存在だった方々について書きたいと思います。

神奈川県の教員採用試験(正式には、神奈川県公立学校教員採用候補者選考試験)に合格すると、採用候補者名簿に登載されます。そして現職者に異動内示が出るころに、着任する学校から連絡が来て、校長面接を行います。
 連絡があった工業高校を訪ねたのは雪の日でした。春の雪で、グラウンドが真白でした。初めて会う校長(故人)は、開口一番「君、酒は飲めるかね」といって私を驚かせました。
 
私の最初のメンターは、この学校に勤務する社会科の先生でした。当時30歳くらいだったと思います。工業科の教員は年配者が多かったのですが、国・数・理・社・英といった普通教科の教員は20代が多かったので、彼は長兄のような立場でした。

九州出身で、東北大学で学び、ナチズム研究で名高い政治学教授の聖書研究会に所属した方でした。学生時代は、アルバイトで東北新幹線の車両を作っていたと聞いたことがあります。身体が悪いお母さまとふたりで暮らしておられました。

穏やかな人でした。私は教員としての力量がない分、生徒に対して大きな声をあげることがありましたが、彼はそういう人ではなかったのです。大学でフランス語を学んだという話から、実現はしなかったのですが、フランス語の勉強会をしようと話したことがあります。放課後になると、蜘蛛の子を散らすように生徒がいなくなってしまう学校でした。経済的に厳しい家庭が多く、アルバイトに行かねばならないからです。それでフランス語の勉強会をというわけでした。

その先生は、会議がない放課後に、空いている教室で、趣味のフルートを吹いていました。兄がいない私は、その先生が好きで、読んでいる本の話などをしたものです。しかし、どこか人生を諦めたような淋しさをこの人に感じることがあった。今思うと、何か大きな夢があって、それを断念したことがあったのかもしれません。すでにご退職していると思いますが、現在はどうしているでしょうか。

この学校には、英語の先生で、三つ揃いの背広を着て、ブランドもののネクタイを締め、外国製の高級腕時計と万年筆を愛用している人がいました。フローリアンという、イタリア人がデザインした小豆色の自動車で通勤していて、勤務時間が終わると職員室から、すーっといなくなる人でした。30歳前後で、結婚していました。作業服やジャージを着ているような教員集団のなかで、少し毛色の違ったこの先生のことが、最初はよくわかりませんでした。虚栄心が強い人なのかもしれないとも思いました。職員室での教員同士の雑談にもあまり加わらず、よく英語の本を読んでいました。

ところが、私にとっては意外なことに、彼は普通科の進学校ではなく、肢体不自由児がいる特別支援学校に異動していきました。そして、普通科の高校には二度と戻ってきませんでした。少しずつ、彼の人柄がわかってきました。雨の日に奥さんとフローリアンに乗って音楽会に行く途中、自動車に轢かれて道路に放置されている犬を発見したときの話があります。彼のことですから、美服をまとっていたはずですが、奥さんとともに路上に出て、雨に濡れながら、夫婦で亡骸をフローリアンの後部トランクに入れ、ねんごろに葬ったのでした。

人物ではありませんが、この工業高校の図書室で、私は1冊の本を手にしました。ジョルジュ・ギュスドルフの『何のための教師:教育学の教育学のために』(みすず書房、1972年)という本です。私はこのフランスの哲学者について、何も知るところがありませんでした。ジャケットも取れてなくなった裸本でした。しかし、この書物には引き込まれました。若いギュスドルフが初めて集団の前に立ち、内心ではびくびくしながら号令をかけたところ、一斉に集団が動いて彼は驚きます。これは私自身の驚きそのものでした。この書物を図書館に入れた人も、かつてこの学校に着任した先生だったはずです。会ったことのないその人に、私は今でも感謝しています。この本がきっかけで、私はギュスドルフの『神話と形而上学』(せりか書房、1971年)も読むことになったのでした。

次に勤務した全日制普通科高等学校では、国際基督教大学を卒業した英語科の先生が私のメンターでした。山岳部の顧問で、私を誘ってくださり、週末になると、山に行きました。夏休みには、北や南のアルプスを1週間くらい縦走します。生まれて初めて、川の流れに口をつけて水を飲んだり、無人の山小屋に泊まった翌朝、一面の銀世界のなかに、鹿の足跡を見つけたりするのは、感動的でした。
 
穏やかな方で、偉ぶるところがなく、大きな声をあげるようなことは見たことがありませんが、頼りがいを感じさせる雰囲気を持っていました。30代半ばで、奥さんと一緒にスキューバダイビングをしたり、子どもが生まれると、抱っこしながら家族での海外旅行を楽しんでいました。高校教師という職業を、そして人生そのものを愉しんでいるように見えました。あり得たかもしれない、もう一つの私の人生だったのかもしれません。

研究する、本を書く、という領域では、この春に大学教授を定年退職した、一回り年上の方がメンターでした。東京外国語大学から京都大学大学院に進まれた人で、イタリアルネサンス文化、とりわけカンパネッラの研究者でありながら、小説家としても活動してきました。彼の作品集をある文芸誌で書評したことから、親しい間柄になりました。

驚いたのは、彼の著訳書の多さでした。ほとんど毎年、本を出しているのです。本を1冊出版するためには、途方もないエネルギーが必要です。論文の査読を通す以上のガッツが必要です。まして彼は関西在住で、東京の出版社からは地理的にも遠かった。さらに驚いたのは、彼は若いときから腎臓病を患い、人工腎臓透析をしている身体障害者だったことです。1週間に3回、夜間に長時間の透析をしながら生活することの大変さを思うと、著書の多さは驚異的でした。

充実した人生を送ることへの強いコミットメントが、彼の生き方からはうかがわれます。人に迷惑をかけてはいけないという考え方で私は生きてきたのですが、あるとき、人には迷惑をかけなければいけないと大まじめに諭されて、目から鱗が落ちた気がしたことがあります。含蓄のある言葉だと今でも思います。お互いに迷惑をかけあって生きていくのが、この世での、われわれの在るべき姿なのかもしれません。

大学院で猛烈に勉強しなければならない時期に、私は高等学校の現場で奮闘していました。30代に入ってから細々と勉強を始めたので、晩学で、しかも亀の歩みでした。各駅停車で途中下車を繰り返しながら東京から大阪に行くようなもので、優秀な若い方々が新幹線で名古屋に着くころに、私はまだ藤沢あたりにいるような感じだったのです。

しかし、それでよかったのだと思います。そういう生き方しか自分にはできなかったのですから。
(続く)

*写真は、博士論文執筆時に参照した『大航海時代叢書』(岩波書店)です。

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