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たんぽぽの脱走

騒音と共に目が覚めた。原因は耳元。
小学二年にもなるというのにまるででかくなったことに気づいていない息子が、ひたすら私を呼んでいる。

またこの周期が始まるのか。

元々ホルモンの影響で聴覚が過敏になる私には、可愛い我が子の声が途端に騒音となってしまう時期がある。
甘ったれで昔からママの元から離れない息子は、私の歯科の診察中にお腹の上に乗せたままで診てもらったこともあった。
今となってはさすがにそんなことは出来ないけれど、私にとってはその当時とさほど変わらず私の老いていく体と反比例しながら成長する息子がくっついている。

まだ寝てる夫を放置して朝食を済ませ、深夜に届いたチャットをチェックしていると、こたつの中から息子が顔を出した。

「ぎゅーしよー!」

ふっと顔を緩めたくもなるものの、今日は土曜日で、これが一日中続くと考えると心のどこかで少しどす黒いものが混み上がって来ているのがわかった。あぁ、もう進まない。だって頭の上から階段をおりる音が聞こえてくるから。

でかい長男なんて誰が言ったんだろうか。もしかしたらうちの長男は多少なりとも面倒見はいいのかもしれないけど。それでも本当の長男は夫のことは怖いらしく、それなりに父親らしい威厳は保っているらしい。

ここからは、二重の騒音に苦しむことになった。おもちゃ、動画、話しかけ騒ぎ、腹が減ったと言い出す。あっという間に時計の針は14時を指している。朝から夫と息子に話しかけられっぱなしの私の脳はとっくに崩壊してしまっていた。
家族がこんなに鬱陶しいと思っているのは、世の中に私一人しかいないんじゃないだろうか。

元々、結婚そのものだって向いていなかったのかもしれない。子供だってそんなに好きってわけじゃない。それでも自分の子供は可愛いのは本当。だけどこのどうしようもない時期だけは、本当に存在が辛いのだ。私が唯一ほっとできる場所のトイレに入ると、商店街の一角が見える。どうしてこうも自由に歩いているように感じるのだろう。誰だって必ず悩みの一つや二つあるはずで、羨むことなんてできないのに。

精肉屋のおばさんが、大きなキャリーケースを持って出かけていく。勝手な妄想を膨らませて旅行かなんて思って見るけど、その妄想はすぐに子供にかき消されてしまった。
愛という壁が突然立ちはだかったような、そんな気持ち。
一般的に、こういった表現は守ってくれる愛しい人の存在ということになるのかもしれない。だけど今の私には超えてはいけないような、崩れかけのものにも見えている。

「ママ、DVD見たい」
こんな小さな事だって、彼は父親に頼ることはしない。
パソコンをつけてDVDを入れる。再生を押すと、私は鞄からMP3プレイヤーを取り出した。

「スマホでだって聴けるのに何時代だよ」

夫は笑うけれど、あっという間に私の中の逃げ道となった。ネットでもリアルの世界でも呼ばれっぱなしの私には、隠れ家的な世界となってくれるのだから。
一日中笑わない私を、息子と夫はどう思っているのだろう。もしかしたら気づいてもいないのかもしれない。冷えた空気を全身に浴びた私は商店街に向かう。

「しばらく休業」
精肉手に貼られた張り紙は、自分の妄想があながち間違いじゃないんじゃないんだろうかと思わせる。他人事ながらに口角が上がる。今日はなんだかいい日になったように思える。私ができるのはこの程度だけど。

帰宅すると、子供が玄関で出迎える。たった30分の家出に、彼は何も思うことはないのだろうか。いや、むしろ思わないでいて欲しい。
目ざとく私が持っているたい焼きに目を輝かせ、何事にも代えられないような笑顔になっているのだから。

「おやつにしようか。」


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