もしオーブンレンジが恋人だったら

万物に命は宿るというならば、オーブンレンジにも命があり、感情があるのだろうか。
今のアパートに引っ越すとき家電を一新するつもりだったが如何せん、引っ越しにはお金がかかる。
よって私の場合、オーブンレンジと洗濯機は実家で長年使われてきたオンボロを引き取ることになった。
とりあえず最初の数か月をこの子たちで凌ぎ、余裕が出れば買い替えればいいだろうと思った次第である。

私にとって予想外だったのはしばらく使うつもりでいた洗濯機が早々にリタイアしたことと、いかにも年代物で今は亡きＮａｔｉｏｎａｌの刻印を掲げる灰色のオーブンレンジが意外にも使い勝手が良く、買い替えるタイミングを失ってしまったことであった。
結果私がオーブンレンジを買い替えるのは引っ越しを終えてから実に1年半後となった。
八月某、昼下がり。冷蔵庫を開けて鶏肉を取り出すと異臭を放ち糸を引いていた。あれれ、昨日買ったばかりではと思い冷蔵庫を確認すると、わずかに室温より涼しいばかりで全く機能していない。
まさか新居にて唯一買い替えた白物家電の冷蔵庫が御釈迦になるのは想定外！と慌てたが、どうやら漏電遮断器が落ちているようで。その漏電遮断器を落とした主こそオーブンレンジそのひとであった。

ネットで注文した真っ白なオーブンレンジは思ったよりあっさり届いた。
白い冷蔵庫の上に置き換えてみれば、もともとの位置に落ち着いたようにしっくりとくる。
灰色のオーブンレンジは置く場所もないので玄関に転がしておくと、なんだか申し訳ない気持ちが溢れてくる。
この１年半、私にどれだけの暖かめしを提供してくれたことだろう。実家で使っていた期間を考えると１０年は軽く超えている。毎日のように食卓を見つめ続けたこの子にもし感情があるなら、すぐさま代わりを用意した私を恨んだって誰も怒らない。
もしこの子が一言だけ私に言葉を伝えられるなら、なんというだろう？
私はただレンジの前に膝をつき、ありがとうと言った。

万物に命が宿るなら、感情があるなら、この狭いアパートに暮らす私はきっと寂しくないし、ずっと寂しい。

何かを捨てる度に、もう長く使ったからとか買い替えた方が長い目で見るとお得になるからとか、誰に言うわけでもなく（たまに堪らなくなって言ってしまうが）言い訳をしている自分がいる。
ずっと使ってきた家電が壊れた時、とうとう買い替えかと出費がかさむなと思う反面で、心置きなく買い替えられることにほっとしている自分がいる。
私たちはいったい誰に言い訳をしているの？
本当にものに対して申し訳なく思っているなら、長く使ったとかお得になるからとか、そんなの捨てられる側からすれば何の説明にもならないのに。
もう使えなくなった家電を前にして、やっと死んでくれたと安堵することがこの子への愛着と呼べるのだろうか。

真っ白なオーブンレンジの前に立ち私は、この子がいつか死ぬ日を想像した。
ある晩、冷凍しておいた豚コマを解凍しようとしたら返事がない。うんともすんとも言わない。正確にはピッともピーとも言わない。
私は凍った豚コマを片手に立ち尽くし、あーとうとう壊れたかと零す。
まぁ結構長く使ったからなぁ、見た目重視で選んだ割にはコスパもよかったしサイズ感も自分に合っていた。割にいい買い物だったのではないか、この子を選んだ自分は間違っていなかった。
なんて表面上で考えながら、脳みその左の方では次は赤外線センサーがあると嬉しいなとか次は奮発して加熱水蒸気式にしようかとか考えている。
そんな私の前で口を開けたまま冷たくなったこの子は、食材を取り出さないとあんなにしつこく怒ったくせに、しかしもう、私を叱ることも責めることもない。
私は安心しきって次の候補を検索し、廃家電の収集日を確認する。

私たちはものに愛情なんて抱かないし、そこにあるのはいつもヒトとの思い出ばかり。

結局のところ、無機物に愛情を抱くヒトなんていない。
私が灰色のオーブンレンジに感じた愛情の様なものは、実家で食卓を囲んだ時間と両親の顔がレンジに反射して見えただけだった。
変わっていくのは恐ろしいことだから、オーブンレンジを処分すれば１０年分の実家の食卓が一緒に処分されるように感じたのかもしれない。
それはものに付着した思い出に対して払われる感情であって、そのものに対する情ではない。
それでも、それならば、実家での思い出を庫内いっぱいにため込んだ灰色のあの子に、せめて最期にありがとうと言ったのは間違いではなかった。

この子に命があり、感情があっても私の恋人ではない。
それはこの子がオーブンレンジだからではなくて、ほら、友達だからってみんなが恋人候補ってわけじゃないと思うから。
だけどせめて、親愛の意味を込めてこの子に名前を付けようと思う。
君は今日から「白石さん」です。