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ホレーショ・ネルソン:ヨーロッパ海軍の鑑

 ホレーショ・ネルソンはイギリスの海軍提督(1758ー1805)。アメリカ独立戦争や、フランス革命でのナポレオン戦争で戦った。トラファルガー海戦の勝利によって、フランスのイギリス進出を阻止した。死後、世界最高峰の海軍提督と認められるようになった。彼の功績や性格、死後の評価などを説明する。


ネルソン(Horatio Nelson)の生涯

 ネルソンはイギリスのバーナム・ソープで牧師の家庭に生まれた。早くして母を亡くした。叔父の影響で、海軍の道に進んだ。

 海軍での昇進:アメリカ独立戦争

 ネルソンは若くして北極への調査探検船団に参加したが、これは失敗に終わった。

 1777年、ネルソンは中尉となった。この頃、1775年からアメリカ独立戦争が始まっていた。イギリスの北米植民地が本国イギリスからの独立を図ったのである。
 ネルソンは激しい交戦地の西インド諸島へ派遣された。この戦いで頭角を現し、1779 年で艦長となった。戦闘では勝利を重ねたが、流行病で苦しめられた。

 1783年、アメリカ独立戦争が終わり、アメリカ合衆国が誕生した。ネルソンはイギリスに戻った。その後、再び西インド諸島に派遣された。未亡人のニスベットと結婚した。その後、イギリスに戻った。

ネルソンの性格

 ネルソンはこの頃には、愛国心と功名心によって突き動かされていたようである。祖国のための英雄になることを欲した。信仰心にも篤かった。それが異宗派への殲滅戦争を推進する駆動力になることもあった。

 後述のフランス革命への干渉戦争においては、フランス人への敵対心を燃やしたことでも知られる。彼はこう言った。「あなたは、あなたの王の悪口を言うすべての人を敵とみなさなければなりません。そして、悪魔を憎むようにフランス人を憎まなければなりません」。

フランス革命とナポレオン戦争


 1789年、フランス革命が起こった。フランスの議会が国王ルイ16世に反旗を翻したのである。しかし、オーストリアなどがフランス革命を妨害するためにフランスへの干渉戦争を開始した。

 これはフランス王妃マリー・アントワネットがもともとの祖国のオーストリアに救援を求めたためである。他の理由としては、大国フランスで王が議会に打倒されてしまうと、同様の革命運動が周辺国に波及する可能性があったためである。

 だが、フランス革命の勢いは止まらなかった。むしろ、1793年、国王ルイ16世とマリー・アントワネットが議会によって処刑された。
 この国王処刑をきっかけにして、ついにイギリスもまたフランス革命への干渉戦争を本格的に開始した。そのため、ネルソンはナポリに派遣され、トゥーロン港でフランス革命軍と戦った。
 だが、トゥーロン港を奪われた。この戦いでフランスのナポレオンが頭角を現した。1794年、ネルソンはコルシカ島攻略の任務を開始した。この時、右眼を負傷し、視力を失った。
 1797年、ネルソンはセント・ビンセント沖の海戦に参加した。スペイン艦隊にたいして見事な勝利を収めた。だが、戦闘中に右腕を損傷した。

ナイル川の戦い

 この頃、フランスではナポレオンがイタリア遠征を成功させ、人気の絶頂にあり、軍隊を指揮するようになっていた。フランスはいよいよイギリスとの本格的な戦いを視野に入れ始めた。

 しかし、いきなりイギリス本島への戦いを行うのはハードルが高かった。そこで、まずはイギリスとそのインド植民地の通行を遮断することにした。そのため、フランスはエジプトへの進出を試みた。
 そこで、1798年、ネルソンはナイル川の戦いでフランス艦隊と戦った。見事に勝利した。この戦果は大きかったので、ネルソンは男爵に叙された。



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