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キケロ:古代ローマの哲人政治家

 マルクス・トゥリウス・キケロは古代ローマの政治家で哲学者(前106−43年)。政治家としては、名演説の雄弁家としても広く知られ、大きな影響力をもった。カティリーナ弾劾演説によって、共和国の父という栄誉をえた。学者としては、セネカのように、ストア主義の代表的人物の一人として知られる。この記事では、キケロの弁論術や政治思想も説明する。


キケロ(Marcus T. Cicero)の生涯


 キケロは古代ローマ時代にイタリアのアルピヌムで貴族の家庭に生まれた。キケロ家はアルピヌムで最も裕福な家系だった。
 アルピヌムはローマから100キロほど離れていたが、その住民はローマの市民権をもっていた。軍人で執政官にもなったマリウスがアルピヌムの出身者として有名であり、キケロ家とは親戚関係にあった。
 キケロはスカエウォラのもとで法律を学んだ。紀元前87年には、ローマで内乱が起こった。キケロはその頃兵士として活動した。だが、学業を優先した。

 弁論家としての活躍

 紀元前82年、ローマに一時的に平和が戻ってきた。翌年、キケロはクインクティウスの一件で法廷弁論家として初めて出廷した。紀元前80年頃には、ロスキウスの一件で法廷に立ち、大いに成功し、弁論家として名声を高めた。

 紀元前79年頃から、キケロはアテネやロードス島などで遊学した。修辞学や哲学を学んだ。また、この頃、健康を害していたので、その回復の必要があった。

 政治的キャリア

 紀元前75年、キケロは財務官に任命され、公職者としてのキャリアを開始した。シチリアに派遣された。
 その頃、シチリア総督にウェレスが就任し、数々の問題を引き起こした。そのため、紀元前70年、シチリア総督ウェレスの問題に対処するために、キケロが法廷に立った。

 当時の著名な弁論家ホルテンシウスがウェレスを擁護する任務を引き受けていた。キケロはホルテンシウスと論戦し、勝利を収めた。かくしてウェレスを断罪するのに成功した。その後、按察官や法務官に任命された。このように順調に出世していった。

 カティリナ弾劾演説:祖国の父


 紀元前63年、キケロはついに執政官に選ばれた。この頃の一件として、カティリナによる国家転覆の陰謀が重要である。
 その背景として、紀元前64年の執政官の選挙で、カティリナは敗北した。紀元前63年の同じ選挙にも挑戦し、再び敗北した。

 その後、カティリナは武力で実権を奪おうと考え、イタリアでの蜂起を計画していた。キケロはこの陰謀の危険性を察知し、それを元老院で議員たちに説得するのに成功した。

 そこで、カティリナは元老院に召喚された。キケロはそれまでに命を狙われたが、危機を回避し、元老院でカティリナへの弾劾演説を行った。
 カティリナはローマを脱した。カティリナらが有罪である証拠が得られたとして、カティリナらは捕まり、処刑された。その主だった共謀者もまた処刑された。
 この一件により、キケロは名声を確立し、祖国の父と呼ばれるようになった。だが同時に、カティリナ派はキケロを専制政治の独裁者だと大々的に批判したため、このような見方も当時は広まった。

 キケロはこの批判に対抗する必要性を感じ、自身が執政官としてこの国を救ったのだと議会や著作で繰り返し力説することになる。
 具体的には、キケロのカティリナ弾劾の弁論のおかげで、ローマは戦争や虐殺そして流血を伴うことなく救出されたのだ。

  キケロがいなければ将軍が軍隊を用いたので流血沙汰になっていただろうが、キケロという文官がそのような惨状なしで同じ偉業を達成したのだ、と。

 ローマの内乱:第一次三頭政治の中で

 紀元前60年、カエサルとクラッススとポンペイウスが第一次三頭政治を開始した。カエサルは当初これにキケロも誘っていたが、キケロは断った。

 紀元前58年、カティリーナを追放した一件の影響で、キケロの敵対勢力がキケロをローマから追放するのに成功した。かくして、キケロは亡命生活に追いやられ、面目を失った。
 だが、翌年にはポンペイウスらの働きかけにより、キケロはローマに戻れた。キケロはポンペイウスを説得して三頭政治を切り崩そうとしたが、失敗した。
 その後は、カエサルとポンペイウスから彼ら自身の政治に関与しないよう忠告され、キケロは思うように政治活動を行えなくなった。
 この時期、キケロは著述活動に打ち込んだ。『弁論家について』や『国家について』などの主要著作を執筆した。その内容は後述する。

カエサルが勝利する中で

 クラッススが戦死して、第一次三頭政治は終わった。ポンペイウスとカエサルが対立し、内乱が始まった。キケロはポンペイウスを支援した。紀元前49年、カエサルがついにルビコン川を越えてローマに進撃した。

 賽は投げられた。カエサルが優勢となり、ポンペイウスの軍はギリシャに撤退した。キケロもこれに同行した。だが、カエサルがポンペイウスを撃破し、勝利した。

 その後、カエサルがキケロを赦したため、キケロはローマに戻ることができた。キケロは『義務について』や『老年について』などを執筆した。

 晩年

 紀元前44年、ブルータスら共和派がカエサルを暗殺した。キケロは共和主義者だったので、彼らを支持した。
 その後、元老院議員として再び活躍した。共和政ローマの復活を目指して尽力した。たとえば、元老院とアントニウスが対立したので、これを和解させようとした。
 だが、その後も、アウグストゥスとアニトニウスによって、ローマの内乱は続いた。キケロはアウグストゥスを支持して、アントニウスへの弾劾演説を行った。だが、翌年、アントニウスの一派に暗殺された。

キケロの暗殺シーン




キケロが活躍していたローマのフォルム・ロマーヌム

 キケロが政治家として主に活動していたのは、ローマにフォルム・ロマーヌムにおいてである。現在これは、古代ローマの政治や宗教などの中心地の遺跡となっている。

 ローマの街並みには近代的な建築物やルネサンスの建築物もある。ローマを歩いていると、突如として、この古代ローマの広大なエリアが出現する。

 フォルム・ロマーヌムには、当時の神殿や商業施設など(の遺構)がみられる。その中でも、キケロが活躍した元老院は史料をもとに復元されている。中に入れる建物もある。

現在のフォルム・ロマーヌム




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キケロの思想


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