桶狭間の合戦 (下) File004 (7913文字)

    永禄三年(1560)5月、今川義元は駿河・遠州。三河の大軍を率いて東海道を西に向かった。

 義元に従属してこの軍事行動の先鋒をつとめていた松平元康(家康)は、5月18日、義元から鵜殿長照が入っている大高城(愛知県名古屋市緑区大高町)に兵糧を運びこめと命じられた。

大高城4

 四方に二重の堀をめぐらした標高20メートルの丘の上にあるこの大高城は、信長軍の警戒区域に入っていたが、家康は鷲津・丸根砦を巡視する将兵の隙をついて150頭の馬に積んだ食糧をみごとに搬入した。有名な「大高の兵糧入れ」である。

 19日早暁、九根砦を攻め落とした元康は、義元の命に従ってこの城で人馬を休ませた。

 この元康が丸根砦を落としたという報告に接した義元は、信長がさほどの武将ではないという認識を持った。尾張攻略は難事業ではないから、うまくすれば勢いに乗って一気に京まで進撃できるだろうと考えたのである。

 ところが、元康が大高城でほっとひと息入れている間に、義元は桶狭間で信長の奇襲によって首をとられてしまった。

義元討死図

義元戦死の報は、同日に大高城にも届いた。
元康はこれを疑つて信じなかった。使いを出してたしかに義元が戦死したことを確認すると、大高城を捨ててさっさと岡崎に引きあげてしまった。元康はこのときようやく父祖伝来の城へ帰ることができたのである。また、このとき元康もまた天下取りの第一歩を踏み出したといえよう。

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