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「概説 静岡県史」第158回:「地方翼賛文化運動と地方新聞の統合」

 台風10号が去って、今週はすっかり元の暑さが戻って来てしまいました。ただここ2~3日、朝だけはやや涼しくなったような気がします。日中がもう少し涼しくなるのはいつなんでしょうか。思えば、昨年も10月に入っても暑かったような気がしますから、まだ1カ月以上は暑い日が続くのでしょうか。
 それでは「概説 静岡県史」第158回のテキストを掲載します。

第158回:「地方翼賛文化運動と地方新聞の統合」


 今回は、「地方翼賛文化運動と地方新聞の統合」というテーマでお話します。
 1937年(昭和12年)ごろから、全国的に反ファシズムの傾向を少しでも持つと見られた文化団体は、「人民戦線」的と決めつけられて弾圧される事態となりました。静岡県においても、37年に引佐郡気賀町で発行された同人雑誌『東海文学』が標的とされ、同人14人が検挙されて、静岡における第三次人民戦線事件とされたのは38年8月でした。
 一方で、国家総動員体制確立のために、民衆の生活文化の向上が急務とされ、さまざまな文化政策が編み出されるようになりました。例えば、文化人を動員して「講演と映画の夕べ」などがしばしば開催されました。38年3月26日、静岡市公会堂では林芙美子が登壇、「時局と文学と女性」というタイトルで講演し、「新興日本」を宣伝するため外務省が制作した外国向け映画「戦雲晴れて」が上映されました。
 40年5月には文芸協会主催「文芸銃後運動大講演会」が、6日に浜松市公会堂、7日午後に静岡市の陸軍病院、夜は静岡市公会堂で開催されました。久米正雄、岸田国士、林芙美子、横光利一、中野実の5人で、いずれも従軍ペン部隊として中国戦線に赴いた文士で、それぞれの体験談を個性豊かに語りました。公会堂には「インテリ市民」約4000人が殺到して割れんばかりの人気だったと言われます。
 大政翼賛会や農山漁村文化協会の成立を機に、地方文化運動の組織化が図られるようになりました。静岡市では、1925年(大正14年)に創立した県立葵文庫の、外郭団体として設置された静岡文化協会が、41年(昭和16年)8月会報において、大政翼賛会文化部長岸田国士の要請にこたえて地方翼賛文化運動の拠点たるべく活動する、という趣意書を発表しました。しかしその後の活動記録を見る限り、戦時下にあっても童話会、映画会、レコードコンサートなどを開催するにとどまり、特に目立った動きは見られません。既に15年の歴史を持つ同協会は、会員として静岡市内の政治家、教育者、名望家、医師、郷土史家などを網羅し、事務局を図書館員が務めていましたが、求心的人物に欠け、活動のマンネリ化は免れなかったようです。
 43年4月28日付け機関紙『大政翼賛』113号は、全国各地の文化団体一覧を掲載していますが、静岡県分は浜松文化協会、熱海市翼賛文化協会、沼津市翼賛文化協会、小笠郡翼賛文化協会の4団体のみです。43年7月14日付けの同紙121号には「地方文化は戦ふ、全国的な機構愈々整ふ」として、「今まで県単位の文化団体のなかった静岡、新潟、鳥取などでも文化報国会組織準備会を終へた」とありますが、具体的な活動は不明です。いずれにせよ立ち遅れは明白です。
 地方翼賛文化運動が、各地域の文化人の結合により、地方の生活文化の向上を促す運動にまで高められたという側面を持ったと言われる秋田県の北方文化連盟などのような例は静岡県では見られません。一方、積極的狂信的に、国策協力に向けて活動したという形跡も見られません。
 1940年(昭和15年)の大政翼賛会発会により、内閣情報部が情報局に改組され、報道の一元的な統括が強められました。情報局は言論統制を徹底して行い、新聞企業の統合、改廃を各県知事に示達、「一県一紙の統合」が進められることになりました。小浜八弥知事は、県警察部に統合の促進を命じ、県警察部特高課長加藤清と同課検閲係長滝静雄がその任に当たりました。
 当時、静岡県内で発行されていた日刊紙は17紙ありました。
静岡市:『静岡民友新聞』、『静岡新報』、『静岡タイムス』、『静岡日日新聞』
浜松市:『遠州新聞』、『日本民警新聞』、『浜松新聞』、『夕刊浜松新聞』、『駿遠日報』
沼津市:『東静日日新聞』、『沼津新聞』
清水市:『清水日日新聞』、『東海中静新聞』、『清水港埠頭新聞』
熱海市:『東豆新報』、『熱海新聞』、『伊豆日日新聞』
 静岡市は『静岡民友新聞』と『静岡新報』に、各市は一紙に絞り、最終的に一紙とする手はずでしたが、『静岡民友新聞』と『静岡新報』の対立は明治以来であり、どちらが主導権を握るのか、容易ではありませんでした。しかし読売新聞社が『静岡新報』を買収したことで統合にめどがつき、『静岡民友新聞』が中心となって、静岡新聞社が41年12月1日に発足しました。
 静岡民友新聞社社屋がそのまま静岡新聞社となり、代表取締役社長に前静岡民友新聞社社長大石光之助、専務取締役に前静岡新報社編集局長村上正男が就任、資本金は静岡民友新聞が10万2000円、静岡新報が7万8000円を出資しました。『静岡新聞』創刊号の発行部数は1万7078部で、朝夕刊とも4ページ、購読料は1円、1部売り5銭でした。創刊号は題字下に、統合6社名の『静岡新報』、『浜松新聞』、『沼津合同新聞』、『清水新聞』、『東海朝日新聞』、『静岡民友新聞』が併記されました。
 創刊1週間にして太平洋戦争が勃発、号外第一号は「帝国/英米に宣戦を布告す/ハワイに大奇襲作戦」と、12月8日付けで発行されましたが、以後、号外は禁止となり、言論統制は一段と強められました。開戦翌日の9日には天気予報も政府の命令で掲載禁止となりました。検閲は県警察部特高課だけでなく無経験の軍人も介入、大本営発表と情報局発表が幅を利かせて戦時色一色となりました。「銃後」の暮らしも戦意高揚をあおる記事のみが掲載されました。情報局は広告掲載の禁止自粛も命じました。
 一県一紙の統合理由の1つに新聞用紙の欠乏があったことから、創刊から2か月もたたない42年1月20日から夕刊の減ページと休刊、「決戦非常措置要領」により44年3月6日から全国各紙一斉に夕刊を廃止しました。朝刊も漸次減ページとなり、44年11月1日からは毎日2ページとなりました。
 45年6月20日の静岡空襲で、静岡新聞社社屋は残りましたが、送電がストップしたため、印刷不能となりましたが、清水市に印刷所を移し、20日から23日の4日間はタブロイド4ページにして、1日も休刊せずに発行し続けました。24日からは元にもどり、本社での普通判印刷となりました。
 次回は、「本土決戦準備」というテーマでお話しようと思います。

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