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「概説 静岡県史」第147回:「産業報国運動の展開」

 今日6月23日は沖縄「慰霊の日」です。本土決戦の時間稼ぎのために持久戦が展開された沖縄戦終結から79年です。いくら時間が経とうとも、このことは決して忘れてはいけません。ほんの少しでも、このように話題にすることで、語りついていくべきことだと思います。
 それでは「概説 静岡県史」第147回のテキストを掲載します。

第147回:「産業報国運動の展開」


 今回は、「産業報国運動の展開」というテーマでお話します。
 産業報国(以下、産報)運動の発端は、1919年(大正8年)の床次竹二郎内務大臣の下で、労使協調を目的としてつくられた協調会の時局対策委員会が1938年(昭和13年)4月に出した「労使関係調整方策の建議」にあります。日中戦争開始後における労働争議の発生を懸念して、労働組合の方針転換を背景に、「事業一家、家族親和の精神を高揚し、以て国家奉仕のために各々自己の職分を全う」するための指導機関を各工場、事業場に設けるという内容です。この趣旨に基づいて7月には中央機関として産業報国連盟(以下、産報連盟)が結成され、さらに内務・厚生両省は産報運動を積極的に進める方針を採り、地方官庁を通じて産報会の設置、府県単位の連合会組織の結成を促しました。
 静岡県では38年11月19日に、県工場課の主催で労使関係調整方策懇談会が開催されています。この懇談会は県内110余りの工場主を招いた工場談話会の定例総会終了後に開かれ、厚生省事務官により「戦時下の産業報国」の講演、産報会の趣旨・機構についての説明や、方策に関する協議が行われました。その後県は労働争議絶滅の期待をもって、県内各工場や事業場での産報会の結成と従業員への「生活刷新」運動を呼びかけました。
 県内でいち早く産報会が結成されたのは駿東郡小山町の富士瓦斯紡績で、次いで東洋缶詰清水工場、富士製作所、三光紡績静岡工場などに設立されました。39年になると、県の奨励により急速に進み、40年2月7日には産報県連合会の結成となりました。県連合会は、県内の工場や鉱山等に設立されていた143の産報会を結集し、知事を会長、県警察部長を副会長としたものです。また、県内各警察署管内に産報支部が置かれ、各警察署の手で産報の組織化が強力に進められたため、産報会は中小の事業場にも急速に広がりました。
 産報連盟は、全従業員に対する「労使一体」の精神の徹底を運動の最大の目的としていたため、実際の活動は極めて精神運動的なものとならざるを得ませんでした。模範工場に指定された浜松市の鈴木織機産報会で実施事業要項として掲げられていたのは、日本精神の発揚、産業報国精神の顕彰、厚生共栄の増進、銃後後援の強化、非常時国策への協力の5項目でした。
 40年11月に産報連盟が解散し、それに代わる官民一体の中央組織として大日本産業報国会(以下、大日本産報会)が結成されます。41年1月の県連の臨時総会で大日本産報会への統一と、県産業報国会への再編を決定しました。大日本産報会は、産報運動の中核的担い手を育成するために産報青年隊の編成に力を入れました。県産報会も41年5月に25歳以下の男子50人以上を擁する単位産報に向けて青年隊の結成を促す文書を発し、まもなく富士瓦斯紡績小山工場に県内初の産報青年隊が組織されました。また、大日本産報会の下で、産報組織と職場機構の一体化が進められました。職場内の産報組織を「部隊」化し、職制区分に応じて編成、下部組織には5~10人を単位とする五人組をおくというものです。さらに規律訓練の徹底強化が叫ばれ、職場内の言語、動作、服装などを軍隊式に規定した要綱が発表されました。その後、労働者は「産業戦士」と呼ばれ、職場は上位下達の徹底した軍隊的な組織へと変化することになりました。
 産業報国運動に倣って、農林省も農業報国運動を提唱し、1938年(昭和13年)11月、農業報国連盟を発足させました。農業報国連盟が最も力を入れた事業は、国策としての食糧増産を遂行する「農村中堅人物」の養成でした。40年10月、農業報国連盟は全国の農村から選抜した15,000人の青壮年男子に訓練を施し、将来の「農村中堅人物」として育成しようという、農業増産報国挺身隊を編成する計画を発表しました。300人一個中隊を割り当てられた静岡県では、県内各村から2人ずつ選ばれた「志操堅実、身体強健なる」青壮年により農業増産報国挺身隊の編成が行われました。第1回目の訓練は、同年12月から約1か月間、茨木県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で実施され、食糧増産等に関する講話や作業とともに武道、行軍が組み込まれ、徹底した軍隊式で行われました。中央訓練に続いて県内でも41年2月に10日間、各村2人ずつ選抜された青壮年に対して、内原訓練所同様の訓練が実施されました。
 農業報国連盟は地方組織として道府県単位の支部、郡市委員会、町村および部落への指導班の組織化を促しましたが、産報と違いなかなか進まず、静岡県でも組織確立は困難でした。
 農業報国運動は、農民に報国精神を徹底させることを主眼に置いた精神運動の性格が強く、労働力不足が顕著な農村において、現実の食糧増産に顕著な効果をあげるものとは言えませんでした。
 43年6月、農業報国連盟は農村労働奉仕への動員確保のために全国的な食糧増産隊の編成を打ち出し、44年5月、農業報国会に名称を改めました。静岡県でも45年2月に農業報国会県支部が発足しましたが、まもなく産報会や商報会などとともに、国民義勇隊に統合されることになりました。
 商業報国運動は、「公益優先を根本理念とし国家の商業者たらんことを期す」とうたい、戦時経済統制下で頻発する闇取引などの統制違反防止と、配給機構の整備を主眼として商業者を糾合した翼賛運動です。1940年(昭和15年)、近衛新体制運動が開始される過程で、商業組合中央会は商業報国運動方針を決定、さらに9月に商工省から通牒が出されたこと全国的商業報国連盟、商業報国会の結成が促されることになり、11月には商業報国中央連盟が設立されました。
 静岡県では静岡県商業報国連盟結成に向けて県内各都市の商工会議所、商工会、商業組合などの商業団体関係者を集め、8月8日には創立委員会を開催し綱領、役員を発表、連盟会長には県経済部長が就任しました。商業者側からも動きが起こり、11月には県繊維製品小売商業組合連合会が県内約2000人の同業者を糾合して商業報国実践大会を開催、各地の商工会・商業組合による商業報国会設立が進められました。浜松市では業種別に組織された28の商業報国会の連合体として浜松商業報国連盟が組織されています。県商業報国連盟は41年11月に県商業報国会へと再編を遂げました。
 産業報国会、農業報国会、商業報国会の組織化に遅れをとりながらも、労働者を翼賛運動に糾合する労務報国会結成の動きも進められました。労働力不足が深刻化するなかで、労務者の適正配置は重要な国策課題の1つでした。41年9月、全日本労務供給事業組合連合会は労務供給業・作業請負業者と労務者とを一丸とする労務報国会の結成促進を申し合わせました。政府による労務報国会設立推進の通牒は42年9月に発せられ、厚生省が大日本労務報国会の創立総会を開催したのは43年2月でした。
 静岡県労務報国会の結成大会が開催されたのは、大日本労務報国会創立の翌日の2月9日でした。交通運輸、土木建設、労務供給、鉱工業などの事業者と、これらに所属する労務者の代表約2000人が参加し、県労務報国会会長には知事、副会長には県警察部長と労務供給者の鈴木与平が選ばれました。県労務報国会支部は清水市、静岡市で結成されています。
 次回は、「戦時下の女性団体と青年団体」というテーマでお話しようと思います。

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