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「概説 静岡県史」第139回:「満州開拓移民」

 今年は昨日27日からゴールデンウイークということのようですが、来週3日間も普通の日があり、それを休みにするのはかなり難しいので、(一部の大手の方は可能でしょうが)、昨日、今日、明日の3連休と、後半3日から4連休ってのが一般的だろうと思いますが。
 今日みたいな天気の良い日には、どこかに行きたいなぁと思いますが、子どもの就職に伴い、先月は引っ越しやら、必要な生活物資の購入やらでお金が湯水のごとく無くなり、クレジットで買ったものも多いので、その支払いは来月まで続くため、連休だからと言って、ご機嫌に使えません。結局、今年もなんとなくゴールデンウイークが終わってしまうのかなぁ。
 それでは「概説 静岡県史」第139回のテキストを掲載します。

第139回:「満州開拓移民」


 今回は、「満州開拓移民」というテーマでお話します。
 1932年(昭和7年)から行われた経済更生運動は、国家の財政支援としても不十分なもので、農山漁村の窮状を克服することにはなりませんでした。
 36年(昭和11年)の「農山漁村経済更生特別助成規程」は、毎年交付する「農山漁村経済更生計画実行の助成」費用のための規程で、計画実行のため、町村が借り入れた預金部資金の利子1/2以内の補助金交付を設定しています。また「経済更生特別助成協議会における県の指示事項」は、経済更生特別指定村の競争を図ることで、経済活性化を達成しようという狙いを持っていました。そこには「自力更生精神及び農業報国精神の発揚」、「戦時下における経済更生の趣旨は、村経済の恒久的更生のみならず、国策たる重要農林水産物の増産を図るため、農山漁村の諸組織を整備し諸団体の統制並びに活動の促進、ひいては農山漁家の自覚により経済更生計画に実施を期する」とうたうとともに、「満州分村計画及び満州農業開拓民送出」について述べています。「農山漁村の経済更生を徹底せしめ村の恒久的安定を図るには、その根本策として村内資源と人口の均衡を調整することきわめて肝要なり。その不均衡打開策としての満州分村計画の実施、満州農業開拓民の送出は経済更生上」重要と考え、「一方、吾が民族の大陸発展及び満州開拓の促進のため非常時局下重要国策にして」その達成を図るべきこと、と打ち出して、経済更生特別助成計画の推進と満州開拓移民政策が一体のものとして位置付けています。
 経済更生運動が、初め財政的には町村技術員や農会技術員の農家経済への技術指導のための旅費等の支援という消極的内容と、他面で産業組合運動等による民間の経済力に依拠した共同倉庫や選果場の設置等の計画策定による活性化を図るにとどまっていたのに対して、経済更生特別助成は施設整備等へのより積極的な経済支援を含みつつ、活性化にとって障害となると意識された「過剰農家」の「満州移民」へ誘おうとしたところに大きな相違があります。
 満州開拓移民政策は、陸軍の影響が大きかった拓務省による満蒙開拓武装移民の組織化を図るべく、窮状にある農山漁村の一定世帯をまとめた分村移民方式で、過剰農家の満州への投入を実現し、関東軍の支配力不足を補完させる目的で、武装農民として特に関東軍の手薄な地帯への日本人村建設を行いました。その目標は20年間で100万戸、500万人という大規模なもので、この目標設定には、満州総人口を5000万人と予想し、その10%を日本人が占めることによって「安定支配」が可能になるとの判断でした。また他方では、それは全国の農家総戸数のうちから過剰戸数として割り出した数値であり、特別指定村についても、村ごとに過剰戸数を割り出させて、満州への送り出しを実施しました。
 このような移民送り出しにあたっては、移民地の視察を行い、「王道楽土」キャンペーンを実施しました。静岡県では特別助成村38か村のうち分村移民を行ったのは、富士郡富丘村、白糸村、ともに現在富士宮市、芝富村、旧芝川村、現在富士宮市、浜名郡知波多(ちばた)村、現在湖西市、駿東郡愛鷹(あしたか)村、現在沼津市の5か村とされていますが、他に駿東郡原里村、現在御殿場市、榛原郡中川根村、旧中川根町、現在川根本町などでも分村移民が行われました。
 「満州農業移民募集に関する件通知」は、36年(昭和11年)12月24日、静岡県学務部長から市町村に発せられた通知で、「満州農業移民の奨励は町村、部落の経済更生上根本的にして且つ甚大なる関係之有候……若し此講演会、懇談会等御開催の計画之有候はば、御希望に依りて適当なる講師を派遣」すると報じており、当時は満州農業移民への応募が相当あったということです。
 郡レベルでは青少年義勇軍の訓練施設が登場します。その1つが賀茂郡拓務訓練所です。町村レベルでも同様な組織化が追及されました。そうした旗振り人をいかに組織するかという問題から、大陸開拓後援会が設置されました。開拓民と青少年義勇軍を送り出す際には、この組織が「出征将士に準ずる待遇」を図り、餞別等を行うとしました。村ぐるみ町ぐるみの組織として会長は町村長が担い、理事には村会議員や小学校長、青年団長等があたり、特に高等小学校二年担当教員が青少年義勇軍募集にあたることが示されていました。全国的には農業移民のために、日本国民高等学校長の加藤寛治が茨木県内原に訓練所を設置し、満州の厳しい気候条件に耐えられるような肉体的訓練と精神訓練を行いました。また政府も富士山や八ヶ岳に訓練所を設置します。静岡県では38年に、多田実が校長だった県立引佐農学校に静岡県開拓訓練所を設置しました。その後多田は県立小笠農学校長に転任すると、40年、小笠農学校に静岡県女子短期訓練所を設置して満州向けの花嫁養成を行います。多田はさらに43年、静岡県女子拓殖訓練所を設置しようとしましたが、志太農学校へ転任したため実現しないまま敗戦を迎えました。多田の後任で小笠農学校長になった角替(つのがえ)九一郎は静岡県女子拓殖訓練所の所長を兼任しました。
 42年の「満州地方農業移民地視察報告書『静岡村概況』」と題する、満州農業移民による開拓村の詳細な実情を視察した報告書によると、静岡村の立地は現在の黒竜江省北東部、ハルビンからはるか北東の満州東北隅の旧ソ満国境に近く、松花江と黒竜江の合流地点に近接した土地で、当時は三江省湯原県(さんこうしょうとうげんけん)鶴立崗(ホーリーガン)という地名でした。この報告書は当時の榛原郡中川根村の板谷宗吉前助役らが視察訪問した記録で、中川根村民が安心して満州に移民できることを示すことを目的としていました。村では政府による奨励目的のための映画の巡回上映会が行われました。県内からの開拓団、青少年義勇軍の送り出しは、全国比で3.8%、約3%でした。
 満州移民開拓団は、32年10月の試験移民団約500人が三江省樺川県(かせんけん)佳木斯(ジャムス)に入植したのを皮切りとしますが、その後この団は弥栄(いやさか)開拓団と称しています。35年10月、満州拓殖校舎が設立され、開拓民への金融、移住地の買収分譲、開拓地建設と経営に斡旋助成することとされました。36年には広田弘毅内閣で満州移民を10大国策の1つとして位置付けることとされました。38年度を初年度とする第一期五か年計画により、10万戸移民が始まります。翌年「満州開拓政策基本要綱」により、移民は「開拓民」とされ、37年7月には関東軍の指導により「青少年農民訓練所創設要綱」が登場し、同年9月には青年義勇軍先遣隊が派遣されました。11月になると、政府決定により青年移民送り出し方針が打ち出され、38年から青少年義勇軍の送り出しが本格化しました。静岡県の第一回送り出しは36年3月、東安省鶏寧県(とうあんしょうけいねいけん)哈達河(ハタホ)開拓団に8世帯36人が入植し、45年6月の海城清水郷の入植まで単独開拓団10団4527人、混成開拓団など71団135人を送り出しました。青少年義勇軍は38年5月6日、内原訓練所を終えて派遣された83人を皮切りに44年5月の勃利(ボーリー)訓練所神田中隊送り出しまでの8個中隊1933人を送り出しました。総人員6595人中、帰還者は4908人、74.4%、死亡者1475人、22.4%、未帰還者212人、3.2%でした。
 次回は、「満蒙開拓の実態」というテーマでお話しようと思います。

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