「概説 静岡県史」第140回:「満蒙開拓の実態」
連休後半に、「浜名湖花博2024」に出かけましたが、非常に天気も良かったので、とても良かったです。日差しが強くて紫外線で目をやられたようで、帰って来てから目がショボショボしましたが(この時期でも、サングラスは必要ですね)、花や緑はいいですね。「概説 静岡県史」のストックが無いことも忘れて、すっかりのんびりした気分になってしまいました(来週、掲載するものがない!)。
それでは「概説 静岡県史」第140回のテキストを掲載します。
第140回:「満蒙開拓の実態」
今回は、「満蒙開拓の実態」というテーマでお話します。
林業労働者としての生活を主とした、零細な土地持ち農民がほとんどであった榛原郡中川根村、現在川根本町では、第一次世界大戦期には林業労賃も上昇しましたが、大戦後の景気後退と長期の低迷で、木材価格の大戦前への低落に引きずられて林業労賃も一挙に低落しました。そのような地域住民の生活苦に一層の追い打ちをかけたのは昭和恐慌です。
村政担当者たちに用意された国家からの救済策は、零落を余儀なくされた多数の村民を満蒙開拓団に組織することでした。恐慌対策としての経済更生計画は、ある程度の農業基盤を有している場合には一定の回復政策として展開させることが出来たかも知れませんが、ほとんどの住民が土地や山林を持たず、志太郡島田町の材木商人に雇用されて山林伐採に従事するほかなかった中川根村のような場所では、発展させるべき生業がなかったため、意味を持ちませんでした。だからこそ過剰人口を何とかするために、強権的な満蒙開拓団が用意されたのでした。
1942年(昭和17年)4月、中川根村前助役板谷壮吉を団長に145戸、693人が、竜江省白城子(パイチョンズ、現在吉林省白城市)外の鎮東県套保(タオパオ、現在到保)村周家地区に、分村川根郷として入植しました。4月10日に中川根村を出発し、12日敦賀港を出港、14日に朝鮮の清津(チョンジン、現在北朝鮮)に上陸し、17日新京(長春)、18日白城子を経て、套保に到着しました。大豆、コウリャン、ジャガイモ、野菜類を作付けし、農業、牧畜、植林の三者兼営の営業方針を立てます。子どもたちは鎮東県竜山開拓団在満国民学校に就学、青少年義勇軍にも29人参加しました。
送り出し経費はすべて補助金によって運営されましたが、300戸とした送り出し目標の世帯数を確保することは困難でした。43年1月23日の村文書では、「第二回本隊六〇戸送出に付ては……一七人合格し、……計画に充たざる四三戸の送出は第三回本隊として二月二十日迄に募集」することとされました。2月3日から5日まで、開拓団員送り出し啓発講習会が中川根村長、同興郷会長連名で開催され、分村計画の模範である長野県木曽郡読書(よみかき)村からの報告、開拓団送り出し運動にまい進していた県会議員加藤弘造の妻つなが女子の興亜教育に関して、「義勇隊婆さん」による「女子の大陸進出」の意義などが語られましたが、第三回は12戸のみでした。開拓民配偶者あっせん指導員が活躍し、開拓団編成推進員を動員して送り出しに努め、最終的には他の六か町村にも呼びかけて第11次集団開拓団として300戸、617人の送り出しとなりました。送り出された家の財産である土地や山林、家屋の管理は個人間の処理にゆだねず興郷会に一任するようにさせ、同会が農会、森林組合、産業組合と協力して管理、処分することとされました。
套保は、静岡県からの他の開拓団と近接し、福田開拓団の入植地と隣接した位置にあり、長春から北西へ350キロメートルほどの白城駅の2つ手前の駅周辺という奥地で、北緯45度31分ですからちょうど北海道の緯度に相当します。モンゴル砂漠にも近く、年間降雨量は200ミリ、冬季はマイナス33度の乾燥地帯で寒冷地ですが、中川根開拓団が入植した地域は今日でもトウモロコシ、コウリャンなどの穀物地帯で、農繁期は夏季に集中し、高緯度のため日照時間も長く、生産性も高いと報告されています。中川根開拓団の村は周家囲子という現地名で、周家中川根開拓団と称しますが、これは周家の所有していた土地を示していると伝えられることから、他の場合と同様に既耕優良地であったと考えられます。土地の広さは約1万3000ヘクタール、入植300戸として1戸あたり25ヘクタールの配分が期待され、残余は共同経営に充て、しかも河川に沿った地域であったことから、母村の現実と違い、水田を所有したいと願ってきた山村の人々に期待を持たせました。入植当初は現地の農法を学ぶために、現地人を雇い入れ学び、初年度は団経営で作業に取り組んでいます。
白城子には電気が引かれていましたが、開拓団村には送電がなく、夜はランプ生活で、冬には炊事と採暖のため洮児河でアシの刈り取りが重要でした。食事は雑穀、つまりコウリャン、粟、キビ、小麦などの混炊で、副食の肉類は主として自給豚肉、自給みそ類です。当初、医療施設はなく医師もいなかったので、白城子の満鉄病院に依存していましたが、43年にようやく診療所が開設されました。
43年度の「開拓地状況報告」は、「当初の部落設置計画では、後棉二五戸、前棉五戸、一棵樹二五戸、好門昭二〇戸、風水山一五戸、計九〇戸の計画であったが、期待に反して入植者の数がへったため、五部落編成を中止し、新たに一棵樹、東風水山を加えて四部落とし、前棉は農耕者を減らして逐次本部部隊の形を整えていくことになった」としています。
44年末には開拓団でも応召者が相次ぎます。44年5月初旬には板谷壮吉団長、翌年5月末には中野幸逸団長代理まで応召し、最後には40歳以下の男子は皆応召したと言ってよい状態となりました。45年7月の兵員動員により、本部は2人の指導員と2、3の団員のみとなり、「指導体制は崩れて」しまいました。『あゝ拓魂』記載の「最後の部落編成」から計算すると、135世帯のうち応召者世帯数は53世帯、40%におよび、生産組織としての体制をとどめることさえ困難な状態となりました。
満蒙開拓政策が目標とした100万戸、500万人移住は到底達成される状況にはありませんでした。その不足分を穴埋めするかのように取り組まれたのが、16歳から19歳前後の小学校を終えた青少年を満州に動員する満蒙開拓青少年義勇軍でした。
中川根村では42年11月8日に青少年義勇軍を呼びかけました。既に39年2人、41年1人、42年4月には4人の送り出しを行っていましたが、分村の中堅人物として期待されるべき人材として、毎年20人の送り出しを期待するものでした。母村出発の壮行式は学校で開催し、郡教育会から餞別として15円、役場から訓練服代として10円が贈与され、訓練服は衣料切符なしであっせん、戦闘帽は県から贈呈するなどの特典が与えられました。
第一回選考では5人応募し5人合格でしたが、実際の参加は4人でした。第二回の募集で6人が合格、結果として42年度は合格者10人となりましたが、目標の20人の半数でした。43年2月の第三回募集に当たっては各部落会1人以上応募するように指示が出されましたが、44年度も10人にとどまりました。全国的にも38年から42年の目標9万4800人に対し、実績は6万4000人、68%でした。
全国で初めて同一県出身者で編成された義勇軍郷土単独中隊である植松中隊は、元教員の植松貞治を中隊長とする297人の中隊で、1940年(昭和15年)6月25日から牡丹江省寧安県紗蘭鎮の寧安(にんあん)訓練所で訓練を受けた後、43年5月に東安省饒河県清渓(ちんつー)に入植しました。清渓はウスリー江を挟んでソ連と接している土地で、入植地名をとって清渓義勇隊開拓団と称しました。最盛時の構成員として第一小隊が富士郡単独で61人、第二小隊が沼津市および駿東郡、田方・賀茂郡等の伊豆で組織された58人、第三小隊は清水市を中心とした59人、第四小隊は中遠地方の64人、第五小隊は浜松を中心とした65人、合計307人です。
静岡県が戦後発表した県下の送り出し状況は、静岡県海外移住協会編『静岡県海外移住史』によると、単独開拓団数10、人員4527人、青少年義勇軍は県単独と混成で約3000人です。
次回は、「戦時下における「行」と「錬成」の教育」というテーマでお話しようと思います。
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