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「概説 静岡県史」第144回:「学校教練と高等教育の軍事化」

 今回学徒出陣の際の、静岡高等学校出陣学徒総代であった原口清の言葉を取り上げていますが、原口先生には生前親しくお付き合いさせていただいていて、私にとっては非常に温和で朗らかな先生というイメージしかないだけに、あの原口先生がこのような言葉を発せられていたということは、全く想像できません。それゆえ逆に、あの原口先生すら、このような言葉を発するくらい、当時の社会はおかしかったのだということを強く感じます。
 それでは「概説 静岡県史」第144回のテキストを掲載します。

第144回:「学校教練と高等教育の軍事化」


 今回は、「学校教練と高等教育の軍事化」というテーマでお話します。
 1925年(大正14年)4月、「陸軍現役将校学校配属令」が出されました。「大学令」による大学を除く、官立または公立の中等学校以上の学校に将校を配属するというもので、静岡県では静岡師範学校、浜松師範学校、静岡高等学校、浜松高等工業学校、各種実業学校、各中学校が相当し、これらの学校で軍事教練が始まりました。
 中泉中学校では、同年6月、夜の演習が行われました。現役将校の配属並びに教練査閲を通して、軍部の学校教育への介入が次第に強まっていきました。沼津中学校では31年(昭和6年)の教育事務分掌は、教務、訓育、風紀、式場、衛生、外庭整理、級監、学友会に分かれていましたが、風紀及び式場の主任に配属将校が充てられました。同年度、野外演習が全学年とも6回、4、5年生は1泊の野営が含まれていました。33年度には3年生以上が5回、1、2年生が4回となっています。野外演習は一教科内の問題としてではなく、学校行事として学校教育のなかで重みを持つようになりました。
さらに学校での野外演習のみならず、三島練兵場で行われた陸軍記念日や御親閲記念の分列行進にも加わり、近郊での合同演習にも参加しました。同年6月狭窄射撃場が開かれ、35年度には実砲射撃演習、36年度以降には北伊豆を中心とする行軍が例年行われるようになり、夜行軍も実施されるようになりました。この間、陸軍富士裾野演習場の板妻廠舎への宿泊、校長ら職員引率で5年生102人が静岡連隊の兵舎宿泊など、軍隊生活の体験演習も行われました。
 女生徒に関しては、沼津高等女学校の例によると、35年6月、4年生全員が愛国処女団に入団し、9月から毎朝なぎなたの練習をするようになり、なぎなた指導者が巡回で指導することになりました。
 1943年(昭和18年)9月、文科系高等教育諸学校在学生の徴兵猶予を撤廃し、12月1日、第一回学徒兵入隊(学徒出陣)が始まりました。22年(大正11年)8月に設立された静岡高等学校でも、43年10月20日、学徒出陣壮行式を行い、織田祐萠校長は「勅を奉じて死すとも生くるなし、身を大君に捧げることまさに本懐といはずして何ぞ。さらば出陣の学徒諸君元気で征き給へ」と訓示しました。出陣学徒総代であった原口清は、次のように決意を披露しました。
  静岡高等学校はわが青春の日に温き揺籃の地なり。今日懐しきこの学窓
  を去り、勇躍米英殲滅の壮途につかんとするに当り、かくも盛大なる壮
  行式を催さる感激に堪へざる所なり。時局まさに重大なり。出陣に当り
  胸中生死なく皇国道統護持のために君国に奉ず、まさに本懐といふべき
  なり。宗良親王の御歌に「君のため世のためなにか惜しからむ捨ててか
  ひある命なりせば」とあり、一死以って君国に奉じ魂魄(こんばく)永
  (とこし)へに止まりて護国の御楯となり、御稜威(みいつ)に答へ奉
  らんことを誓ふのみ。
 静岡高等学校文乙の17回生で、東京帝国大学経済学部在学中に学徒出陣し、回天特攻隊に所属することになった亥角(いすみ)泰彦は、出撃の早暁に母親へ送った「遺書に類する」手紙の中で、以下のように書いています。
  私は軍隊に入る頃から死ぬことは何でもないと、馬鹿のやうに言ってを
  りました。事実さうであったやうです。併し生命何ぞ惜しむに足らんと
  常々吹聴していなくてはならなかったといふのは、やはり「生死」とい
  ふものに非常なこだわりをもつことをあらはすものです。事実私は生死
  を超越したといひながら、つい先頃まで死生感といふ問題が頭の中から
  離れたことはありませんでした。
  それは私の仕事の性質上殊に仕方ないことだったかも知れませんでし
  た。自分のなすべきことは判っている、しかもそれに対する訓練は受け
  ていない、さういった頃(去年の終三ヶ月間)の私には如何にして我々
  の死を価値づけるか、我々は何に生命を捧げるのか、何やかやと思ひ惑
  ったものです。しかし愈々訓練を始めてからといふもの、私は死といふ
  ことを少しも考へぬやうになりました。誰の為に死ぬとか、それは犬死
  になりはせぬかとか、そんなこと総て頭の中から消えてしまひました。
  又考へる必要がなくなったのです。自分のなすべき仕事―これは決して
  我等何をなすべきか、といふ道徳的な命題の意味でもなく、又所謂軍人
  としての職責とかいったやうな重苦しいものでもなく、唯「さあこれか
  ら寝ようか」と言ったやうな極く軽い、気楽な意味の「仕事」なのです
  が―を唯淡々としてやってゆく。私の今の死生感はこれにつきていま
  す。死生感といふ言葉に一寸不適切な表現ですが、唯あるがままに最善
  を生きて行け、さうすれば死も生もすべてがうまくゆくのだ。
 極秘命令を受けての軍事訓練は、考えることをやめさせ、知性を麻痺させました。それが軍隊教育の本質でもありました。
 清水市折戸に創設を目指していた官立高等商船学校は、1942年(昭和17年)7月に正式に設立が決定されて、年末から校舎の建設が始まりました。14年(大正3年)の第一次大戦時には、商船学校は全国で11校ありましたが、第一次世界大戦後の海運界の不況により、30年代中期には佐賀・島根・函館の3つが廃校となりました。しかし30年代後期には海運界は好況に向かい、商船学校の採用人員を増加させ、やがてアメリカとの戦いが始まるとすべて逓信省海務院の所管とされ、海軍予備員としての教育が強化されていきます。
 清水市に設置された高等商船学校は、45年には東京・神戸・清水の三校が清水に統合されることになりました。清水高等商船学校の教育目的は、「優秀なる高等海員は国家の至宝である」という一文から始まり、「本校生徒は入校と同時に又海軍兵籍に編入せられて海軍予備生徒を命ぜられ、将来、護国の重責に任ずる帝国海軍将校として必要なる資質と徳性を錬磨涵養せしめられるのである」と、商船学校が海軍軍人予備教育機関であることが示されています。
 この趣旨は「清水高等商船学校生徒服務綱要」に、さらに明瞭に示されています。この第一項には、
  清水高等商船学校生徒は、将来、高等船舶職員並に海軍将校として護国
  の大任を負ひ、皇国の楨幹(ていかん)たるべきものなり。故に徳性を
  涵養し、品性を陶冶し、強健なる体力と明敏なる智能との錬成に努め、
  特に軍紀に慣熟し、軍人精神即海員精神を鍛練するを要す。
 と、軍紀と軍人精神の涵養を強調しています。第二項で「軍紀は軍の綱紀にして、統制の見地に於て各人の思想及行動を規正すべき理法なり」と「軍紀」について説明し、第三項で「軍人精神は聖旨を奉戴する純真なる信念に出発し、自彊息むこと無き万人の実践精神にして、其の消長は常に国連の隆替に関す」と「軍人精神」について説いています。
 1942年(昭和17年)12月、清水市駒越地区に財団法人国防理工学園による航空科学専門学校が創設されます。設立趣旨は「高度国防国家を確立し、大東亜共栄圏を建設する上に於て、科学技術の画期的振興と献身的人材の養成は、現下緊急不可欠の事務なり……先づ第一に近代戦に於て最も重要視せらるゝ航空学科と物理学科を設置せんとす」とされていて、十五年戦争末期における、戦力的劣勢を挽回すべき、緊急にして不可欠な科学技術者の養成がその目的で、1年生240人の入学を予定していました。
 次回は、「戦時社会教育と幼児・障害児教育」というテーマでお話しようと思います。

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