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「概説 静岡県史」第128回:「推薦制市町村選挙と戦力増強への県民総動員」

 今回は、市町村会選挙を取り上げていますが、地域によって候補者への規制力が強いところと弱いところがあるというのが、そういう状況が起こることは理解できますが、どんな要因で強いところと弱いところが生まれるのか、今回そこまでは調べられなかったのですが、気になるところです。特に市レベルで、いろいろ問題があるというのは、いったいどうしてなのか、翼壮の影響力にポイントがありそうですが、翼壮の地域差が何故存在するのか、新たな課題が出来てしまいました。
 それでは「概説 静岡県史」第128回のテキストを掲載します。

第128回:「推薦制市町村選挙と戦力増強への県民総動員」


 今回は、「推薦制市町村選挙と戦力増強への県民総動員」というテーマでお話します。
 市町村会選挙も衆議院議員同様、1年遅れで実施され、候補者推薦制度が採用されました。推薦制度は、1941年(昭和16年)6月、既に三島市会議員選挙で行われています。無競争で推薦どおりの市会議員を決定することが翼賛精神の表れであるとして、三島大社の神前で候補者選定会を開催し、各町内会から推薦された候補者を定数まで絞り込みました。しかし、選考もれへの不満から非推薦の立候補者が相次ぎ、定数30に対し候補者41と、いつもと変わらぬ選挙となり、非推薦が5人当選しました。42年の選挙でも県が推奨した推薦方式は、三島市の町内会・部落会からの積み上げ、全体調整方式と同じで、町村ではうまくいったものの、市域では問題が露呈することになりました。
 一斉地方選挙は、42年5月21日に県内238町村で執行されました。翼賛選挙において理想とされた無競争当選が161の約1/3に達し、残る77町村で非推薦候補者が立候補しました。無競争当選の多さは推薦候補者の当選率を高め、推薦候補の当選確率は94.5%に達します。非推薦当選者は198人で、非推薦候補者が立候補した77町村で、平均2、3人の非推薦の候補者が当選したことになります。棄権率は10.6%です。各町村とも新人が80~90%に上り、全員新人という町村さえありました。新人当選率は58.9%に達しました。
 翼賛選挙は、従来であればおよそ議員とは無縁な候補者を大量に議会に送り込むという、ある面では活気ある議員層の流動化現象をつくり出し、従来からの選挙地盤の変動を起こしました。既成政党の伝統的支持基盤は、町村レベルから切り崩されていきました。
 5月29日には、静岡市と熱海市で市会議員選挙が行われました。静岡市の場合、元市長尾崎元次郎を選考委員長に据えて、定員の44人の推薦候補を選びましたが、無競争とは程遠く、立候補者総数71人という前代未聞の乱立状態で投票日を迎えました。結果は推薦候補が13人落選し、全体の30%を非推薦が占め、新人はちょうど半数の22人となりました。静岡市のような候補者への規制力が弱い地域では、現職の強みが物を言ったのであり、その面に注目すれば、大量進出した新人の基盤は国家の強制力に支えられた、もろいものだったと言えます。熱海市の場合は、翼壮の活動が活発で、推薦制の採用強制に始まり、非推薦候補者の立候補抑制まで激しい政治的動きを繰り広げました。推薦候補選考委員会の委員長に陸軍中将を据えたのも、翼壮の力が背景にあったと思われます。翼壮は熱海市だけでなく、駿東郡でも非推薦候補者抑制の運動を展開しました。熱海市では非推薦は1人にとどまりましたが、この候補者は上位で当選しました。9月執行の浜松市会議員選挙では、定員40人に63人が立候補という静岡市に似た乱立選挙になり、非推薦候補23人中11人が当選、しかも上位3位までを独占しました。翼賛選挙の成否は、中心となった地域ごとの翼壮の政治力にも影響されたと思われますが、主要都市の政治統制は、町村政治のようにはいかなかったのです。県翼壮にとって都市部の団のもろさが重要懸案事項でした。
 この後、推薦制度は、特に翼壮を中心とする推薦組織の運営に異論が強まり、43年2月、政府は推薦消極論に転じ、翼賛選挙以来の方針を修正しました。
 静岡市では、再選が有力視されていた稲盛誠次市長が8月に辞意を表明したため、新市長選考に入りました。後任には山田順策が有力視されていましたが、衆議院議員選挙で落選した平野光雄を推す声も強まりました。山田と平野は同じ旧民政党で、山田はかつて平野の衆議院選挙事務を支えていましたが、市会で山田市長実現に反発する勢力も強く、平野を担ぎ出しました。当惑した選考委員会はこの時期の流行にならい、軍人の出馬を要請しましたが失敗し、両者の対立は決戦投票やむなしというところまで行きつきます。そのため政治抗争排撃を掲げた翼壮の介入を招き、副議長の辞職声明と助役の辞表提出という事態に至ります。県は県振興課長を市長職務管掌に任命し紛争を強権的にしずめ、市長は結局、元市長の尾崎元次郎が復帰しました。山田は翼賛総選挙で、静岡市内票の約50%を獲得するほど市内では強い政治基盤をもっていた革新派の政治家でしたが、山田への反発も強く、県内翼賛体制の主流の位置を占めることは容易ではありませんでした。
 1942年(昭和17年)5月15日、政府は大政翼賛会の強化を決定し、産業報告会、大日本婦人会、大日本制少年団など行政官庁が指導していた6つの官製国民運動組織を、大政翼賛会の傘下に組み込む機構改革を実施しました。静岡県支部では8月に各団体を傘下に収め、また町内会長、部落会長を翼賛会世話役に、隣組長を翼賛会世話人として常会を指導させ、大政翼賛運動の徹底を図ることにしました。町内会・部落会・隣組を翼賛会の下部組織化する要求は、県内の協力会議でも早くから出ていましたが、ようやくここで実現し、翼賛会は官製国民運動と隣保組織網という、地域と職域の両方から国民を動員する態勢を整えたことになります。しかし、国民全体を網羅する地域組織や労働者全体を組織する職域組織の統合は、国民の戦争協力への自発性を調達する課題とは完全に逆行し、翼賛会は行政補助的国民動員組織としての性格を強めました。42年10月の第三回県協力会議は、従来のような下部組織から上がってきた意見の発表は許されず、思想戦の強化具体策・国民生活の確立具体策などに関する建設的提案のみに議論を限定しました。43年5月の第四回県協力会議は、結婚改善、健民運動、失火防止、国民貯蓄という、さらに限られた細かな問題に対する「建設的な意見」が求められました。
 隣保組織を組み込んだ大政翼賛会県支部は、43年初めから戦争生活確立を常会徹底事項の重点に置いていきます。43年1月20日付け「静岡新聞」では、戦争生活とは衣服、家具の新調見合わせの「間に合わせ」実践、玄米食などであり、「不自由や困難に打ち勝ち戦争生活に徹底し、そのうちから旺盛な戦力を生み出さうといふ」ものであると説かれました。生活の切り詰めは「簡素化」と言い換えられ、簡素化は「剛健」、そして「明朗な生活」と賛美されました。ガダルカナル島から撤退が始まり、戦局が後退局面に入ったことが明らかになった43年2月には、戦局精神高揚と国民皆働の生産力増強運動が呼びかけられました。食糧の増産は、都市部に食糧増産協力を呼びかけ、小さな空き地を含むすべてに食糧植え付けを求めた食糧非常増産運動から本格化しました。また、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アッツ島玉砕が伝えられる中で敗色が見えてくると、「敵のデマ宣伝」、「敗戦主義」への警戒、スパイ防止を喚起する思想戦必勝強化運動を展開し、併せて敵愾心の高揚で戦争継続・不敗意識を高める山本精神高揚運動を展開しました。しかし、上からの戦争精神一色の精神動員が強まるのと反比例して、翼賛会を忌避する傾向も拡大しました。
 翼賛会が上から下へ、常会ルートで運動を呼びかけたのに対して、翼壮は下から運動を盛り上げる役割を演じました。県翼壮は、闇取引撲滅運動、英米撃滅必勝大会の開催、増産運動、供米完遂、木材薪炭用わら工品供出運動、貯蓄増強などの分野で活躍しましたが、地域末端における戦争協力の積極分子の集合体として、県民に対し強制的・威圧的に、また官僚や市町村理事長に対しても攻撃的な急進的運動を展開しました。県翼壮が力を入れたのは農村部で、特に農村の食糧増産では部落ごとの増産計画樹立に力を注ぎました。43年中ごろからは工場生産増強運動の積極的展開も重点課題として取り組みました。しかし、個々の団員の戦争協力精神を常に高揚状態に置くのは不可能です。県翼壮内部では「不熱心な」町村支部役員の更迭、「不良分子一掃」という新陳代謝を繰り返しながら、翼壮の精神性維持を図っていきました。
 次回は、「議会の無力化と翼賛会、翼壮」というテーマでお話しようと思います。  

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