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「概説 静岡県史」第118回のテキストを掲載します。

 今朝、TBS系の「がっちりマンデー!!」で、noteのこと、やってましたね。しっかり見ましたが、かなり多くの人が利用していて、儲かっている人も多いんですね。
 編集者の方々がいらっしゃるとは知りませんでしたが、AI編集長にも気がつきませんでした。おそらく私などはいろいろと文章を直してもらった方が良いんでしょうが、今は「静岡県の近代史を調べて、概説を書く」ことが主目的で、それを記録として残すため、noteにアップしているので、良い文章にすることはまったく考慮していません。読みにくい文章だと思っていますが、ご勘弁ください。
 それでは、「概説 静岡県史」第118回のテキストを掲載します。

第118回:「街頭文化の登場」


 今回は、「街頭文化の登場」というテーマでお話します。
 1925年(大正14年)1月、大日本雄弁会講談社は雑誌『キング』を創刊します。「日本で一番面白い雑誌/日本で一番為になる雑誌」をキャッチフレーズに、昭和初年には100万部を突破する売れ行きでした。その『キング』が28年7月から29年6月までの1年間にわたって連載したのが、菊池寛の小説「東京行進曲」です。モダンなブルジョアの兄弟と、がけ下の貧民の娘が登場人物である、階級矛盾を取り上げたこの小説は評判を呼び、連載中に日活の映画化の計画が進み、映画主題歌「東京行進曲」のレコードが日本ビクターから発売されます。西城八十吉作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子が歌うこの曲は一世を風びし、異例の25万枚が売れたと言われます。
 日ならずして「静岡民友新聞」が創刊40周年と銘打ち、「五百円懸賞小説と小唄」募集を始めます。小説に450円、小唄に50円の賞金で、題名は「静岡行進曲」です。29年7月4日の紙面に「本社は新進作家を中央文壇に紹介するために新聞小説並びに小唄を募集します。構想は勿論自由ですが、「静岡行進曲」の題に相応しい現代の世相を充分に描写した興味本位のものをのぞみます」と掲載され、締め切りは8月末日でした。企画は評判となり、小説は53編、小唄は3666編の応募があり、10月に入って小説は谷川進、小唄は若杉雄三郎が当選しました。
 谷川進の名前はそれまで同人誌などには見かけないため、おそらくこれが処女作だろうと思われます。挿絵も公募され、当初は浜松市の中学生小栗ゆみが担当しますが、60回から篠本としをに代わります。いずれも加藤まさをばりの叙情画です。小説は10月20日から連載が始まり、翌年4月5日までの161回、全編800枚あまりの大作です。
 物語は、旧静岡市と旧清水市を結ぶ電車の沿線、清水公園と静清国道に面した辺りを舞台とし、貧民救済のために心を砕く小学校教師志鳥とその妹昌子を軸に、志鳥の親友で昌子が思いを寄せる、静岡建築土木興業社の設計士で大金持ちの西村明、資産家の娘で静岡高等女学校を卒業したばかりで、賀川豊彦の『死線を越えて』に影響され志鳥に近寄る麗子と、その妹真澄が主要な登場人物です。当時静岡一の繁華街であった七間町は、夜ともなると人々があふれ、そぞろ歩きしており、そうした現象を銀座をまねて「七ぶら」と呼んで流行しており、また狐ヶ崎遊園地のボートでのデートなど、風景描写に気が配られています。最終回は西村が設計した「静岡ビルヂング」の落成式で、最新式国産エレベーターを試乗する西村と昌子、そこに志鳥と真澄のカップルが来合わせ、二組の男女が遠からず結婚し、貧民救済のための「セルツメント」を経営することを暗示してハッピーエンドとなります。
 一方、小唄「静岡行進曲」の若杉雄三郎は、1903年(明治36年)清水市入江の米屋に生まれ、市役所に勤めながら『極光』に詩や歌を投稿する文学青年でした。小唄「静岡行進曲」は松浦誠作曲、河原喜久枝が歌い、コロンビア・レコードからレコードが売り出されます。河原喜久枝は帝劇オペラ出身でジャズに転向、その年ヒットした「ザッツ・オーケー」を歌う人気歌手でした。
 以後、若杉のもとには県内各地から、いわゆるご当地ソングの注文が殺到し、「大清水行進曲」、「興津音頭」、「蓮台寺音頭」、「掛川小唄」などを手掛けます。31年に静岡放送局が開局すると、放送の仕事を手掛けるようになり、36年1月には日本ビクター専属作詞家として上京、後に「ラバウル小唄」を作詞しました。
 当時は緊縮が叫ばれ、不景気の世の中でしたが、そういう時代だったからこそ「静岡行進曲」は人気となり、人々は「街頭」にさまざまな楽しみを見出していたのです。
 七間町は1928年(昭和3年)7月に舗装されました。辻の札から七間町三丁目角まで、8,782円の工賃でアスファルトを敷いたのですが、本来は坪28、9円必要なところを、坪8、9円と簡易な方法で行ったため、完成後数か月を経ずして大部分が陥没破損し、水たまりができてしまいました。「七ぶら」のため、あまりに交通量が多いので破損したとも言われましたが、いかに不景気とは言え70%の経費削減は無理な話です。町総代のたび重なる陳情により、県土木課が再工事することになり、29年10月に完成しました。「鈴蘭灯」がついたのも29年です。
 県庁前を走る鷹匠町から安西二丁目間の電車全線開通は29年4月1日です。また静清国道の舗装整備が行われたのは29年1月4日で、日の出町-曲金区間が開通しました。
 このように29年は、「静岡行進曲」に象徴される都市化のエポックメイキングな年だったと言えます。
 小林一三が阪急電気鉄道会社の乗客誘致のために宝塚を開拓したことはあまりにも有名で、「私鉄沿線文化」と言われ、全国各地で宝塚に倣うアイデアが考え出されます。静岡と清水を結ぶ静岡電気鉄道会社が建設したのは狐ヶ崎遊園地と草薙球場です。
 狐ヶ崎遊園地は、1926年(大正15年)10月30日に開園しました。面積は6万6000㎡、ボートを浮かべた池、西洋式花壇、最新式の機械的遊具機やゲーム機などがあり、食堂もそろっていて一日楽しめる場所でした。庶民にも、ようやく公休日の制度が行き渡り始め、子ども連れの家族は何度も訪れ、「静岡行進曲」に見るように、若者のデートスポットとしてもよく利用されました。
 27年(昭和2年)11月25日から12月4日までの10日間、野外演芸場で狐ヶ崎遊園地のコマーシャルソングとして新民謡「ちゃっきりぶし」の発表会が開催されました。北原白秋に作詞を依頼、作曲は邦楽作曲家で民謡の研究家でもあり、白秋の知人であったことから町田嘉章(よしあき)が引き受け、花柳徳太郎に振付を頼んで仕上げたもので、同時に作られた「新駿河節」、「狐音頭」とともに、毎日1時と3時に静岡、清水、江尻の芸妓衆が歌い踊りました。翌28年1月21日に狐ヶ崎で上演した芸妓衆が上京し、町田嘉章が指揮する生演奏で東京放送局からラジオ放送をすると評判となり、レコードも作成されました。31年7月に日本ビクターから浅草の芸者市丸が歌ったレコードが発売されると、全国的な大ヒットとなりました。
 狐ヶ崎の「ちゃっきりぶし」とほぼ同時期の27年9月1日、日本初のレビュー「モン・パリ」が、花組によって宝塚大劇場で上演されました。作者は岸田辰彌、振付を担当したのが周智郡犬居村(旧春野町、現在浜松市)出身の白井鐵造です。白井は犬居尋常小学校卒業後、浜松の日本形染株式会社に入社しましたが、1917年(大正6年)にダンサーを目指して上京し、19年に小林一三が作った「男子養成会」メンバーとして宝塚入りし、21年演出家として宝塚歌劇団に入団しました。翌年10月から30年5月までパリに遊学し、帰国後「パリゼット」を発表します。それが「モン・パリ」をしのぐ人気で宝塚始まって以来の3か月のロングランとなり、白井が作詞を担当した主題歌「すみれの花咲く頃」もヒットします。また、舞台メイクがそれまでの白塗りからドーランとなりました。白井はその後も数々の名作を世に送り、「レビューの王様」と言われました。現在浜松市には、春野文化センターに併設する形で白井鐵造記念館があります。
 1926年(大正15年)8月、第12回全国中等学校優勝野球大会で静岡中学校が初優勝を果たすと、野球場建設の気運が盛り上がり、県内青年団長会議や県教育会は知事に県営グラウンド建設を建議します。しかし計画はなかなか進展しなかったところ、阪神電気鉄道会社が甲子園球場を建設したのに倣って、静岡電気鉄道会社が球場の建設に乗り出し、草薙球場が30年7月15日に完工、20日に開場式が行われました。草薙球場で特筆すべきは、34年11月20日に行われた全日本選抜チームとアメリカ大リーグ選抜チームの試合です。エース沢村栄治が快投しますが、ルー・ゲーリックにホームランを打たれ、1対0という球史に残る大試合で、現在も草薙球場には沢村の像が建っています。
 次回は、「ラジオの開局と焼津の同人誌」というテーマでお話しようと思います。

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