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「概説 静岡県史」第150回:「労務動員政策の破たん」

 それでは「概説 静岡県史」第150回のテキストを掲載します。

第150回:「労務動員政策の破たん」


 今回は、「労務動員政策の破たん」というテーマでお話します。
 1941年(昭和16年)12月1日、14歳以上40歳未満の男子、14歳以上25歳未満の未婚の女子に対して、1年のうち30日以内の勤労動員業務を課す「国民勤労報国協力令」が施行されました。その後、日数は1年に60日、年齢は男子が60未満、女子が40歳未満にまで拡大されました。国民勤労報国隊は、大政翼賛会、翼賛壮年団、商業報国会、農業報国会、労務報国会、青少年団、婦人会、官公庁、会社、同業組合、学校、町村等の各種団体、職業、地域ごとに組織されました。出動にあたって町村勤労報国隊の場合には、各町内会・部落会別に出動人員が割り振られ、そしてノルマの達成が求められましたが、これは他の団体でも同様でした。
 「静岡新聞」には、様々な団体により結成された県内各地の勤労報国隊の様子が紹介されています。出動先は、県内各地の工場、陸軍部隊、鉱山、農村(食糧増産)等であり、なかには静岡県北方土建建設隊のように北海道まで派遣される事例もあります。また、北海道や九州各地の炭鉱にもしばしば派遣されました。遠隔地の炭鉱へは、転業者や勤労報国会、商業報国会、青年学校によって組織された勤労報国隊が多く派遣され、なかには僧侶によって組織された勤労報国隊もありました。県内の鉱山では、北遠の久根鉱山や峠の沢鉱山への出動が多く、磐田国民職業指導所管内では、42年11月に磐田食料品小売商業組合、中遠繊維製品小売商業組合、二俣繊維品小売商業組合の約200人が、10日ずつ久根鉱山へ出動しました。このように小売業者等のいわゆる不急産業従事者の出動が顕著でした。未経験者による地底での労働は苛酷であり、なかには鉱山で事故にあい死亡した者もいました。
 一方、女子の場合は、41年から県内各地で女子造兵報国隊が組織されました。まず7月には名古屋陸軍造兵廠を勤務場所とする募集が行われました。「静岡県女子造兵報国隊編成要綱」によると、男子労力の一部を女子で肩代わりすることを目的としたもので、満16歳以上40歳未満の女子が対象とされました。同年12月には、豊川海軍工廠を勤務場所とする第二次女子造兵報国隊の募集が行われました。こちらの参加資格は満14歳以上35歳未満で、勤務期間は4か月から6か月程度でした。その後、女子造兵報国隊は相次いで編成されました。
 このように女子造兵報国隊が1年未満の比較的短期間の勤労動員であったのに対して、女子勤労挺身隊の組織化は、より長期の女子労働動員を意図したものでした。43年11年22日の「女子勤労動員の促進に関する件依命通牒」により、女子中等学校、女子青年団等の組織別に女子勤労挺身隊を組織することが指示され、出動期間は1年ないし2年となり、また派遣すべき工場の選定基準、勤務条件にも細かな規程が設けられました。女子青年団勤労挺身隊の場合、4種に分けて編成されました。甲は1年以上勤務できる者で、「女子青年団勤労挺身隊」と称しました。乙は1か月から6か月程度の出動ができる者、丙は就業業務や家業の都合で長期にわたらない勤労報国活動に出動できる者、丁は確実に出動できない者とされました。44年3月26日付けの「静岡新聞」によると、勤労挺身隊の編成は郡部では比較的順調に進みましたが、都市部では結成の動きは鈍かったとされています。44年8月23日には「女子挺身勤労令」が公布、施行されました。それまで自発的に組織されていた女子勤労挺身隊を、命令により総動員業務に動員するものです。対象は国民登録者で、期間はおおむね1年間と定められました。また、動員された挺身隊員の離隊は、被徴用者と同様に相当困難でした。さらに期間終了後も継続を求められることが多くありました。
 このように女子の職場進出は、男子労働力の代替として半ば強制的に広がりました。43年9月には、14歳以上40歳未満の男子の就業が17業種(現金出納係、小使い、店員など)で禁止されましたが、その代替労働力は女子勤労挺身隊に期待されました。そのため各工場ばかりではなく、駅員・列車車掌(国鉄)、郵便配達人、運転手(大井川自動車、遠州電気鉄道)、連結手(静岡電気鉄道)などの運輸関係の職場へも女子の進出が見られました。
 労務動員は軍需産業への動員を最優先としたため、農村労働力の慢性的に足しました。農繁期には学生、都市部の助成や翼賛青年団員による勤労奉仕が実施されました。農林学校の生徒によっては北海道勤労奉仕隊が組織され、数か月にわたり出動することもありました。
 一方、静岡県内へ県外各地から応援に来ることもありました。1943年(昭和18年)には、天竜川沿岸用排水工事や周智郡の土地改良工事などに、北海道や東北出身者による農業推進報国隊員が来援しました。さらに女子勤労挺身隊の結成にあたり、食糧増産に必要な女子は参加させないようにとの指示が出され、さらに工場の農業出身労務者で、農業要員であるものは帰農させるようにとも指示されました。しかし、被雇用者、女子勤労挺身隊員の農業従事を理由とした解除・休暇願が容易に許可されないなど、軍需産業優先、農村労働力不足の構造は変わらず、県民は個人や家族、地域社会の抱える事情が認められることなく、動員されました。
 一方、徴用逃れや労働忌避行為は頻繁に起きました。女子造兵報国隊員の選考では、応募者が募集人員に達しない場合も多く、42年(昭和17年)12月24日付け「静岡新聞」では、清水国民職業指導所が「有閑娘」80人に希望を促したところ、わずか20人の希望者しかなかったと報じられたり、43年11月2日付け「静岡新聞」に、浜松での選考で無断欠席者が20%に達したと報じられた事例などがあります。また女子勤労挺身隊逃れの動向を伝える新聞記事も、たびたび見られます。このような問題は、特に都市部で顕著でした。この他に重要産業に籍を置き、1か月に2、3日だけ出勤し、その他は収入の多い工場に勤務し、徴用令書を受けた場合は重要工場の名を言って逃れようとする者など、様々な徴用逃れが見られました。さらに徴用後も、被徴用者が親族の危篤、死亡の偽電報によって休暇を取ろうとした行為が頻繁に生じました。このため横須賀海軍工廠や大湊海軍施設部では、危篤、死亡の場合は公電で知らせるなどの厳重な管理を、出身地各町村長にたびたび要請しています。また軍需工場では工員の欠勤率も次第に上昇していきました。45年4月12日付け「静岡新聞」には、欠勤の要因として疎開、防空壕建設、買い出しがあげられています。この他、工員が居住する町内会や部落会等の諸団体に割り当てられた勤労奉仕作業への参加を求められたため、当日の勤務を休まざるを得なくなるという事例も見られました。しかし、何よりも大きな要因としては、劣悪な条件での労働の強制に対する忌避感がその根底にあったと思われます。戦争末期になると、欠勤率の増加、熟練工の払底による労働の質的低下、軍需優先による農村労働力の慢性的不足といった労務動員政策の矛盾がより顕著となりました。45年(昭和20年)3月6日には「国民勤労動員令」が公布、同月10日に施行されました。労務動員関係の5つの法令を統合して勤労動員体制の強化を目指しましたが、労務動員政策の矛盾の顕在化は隠しようもありませんでした。
 次回は、「日常生活の統制」というテーマでお話しようと思います。

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