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「概説 静岡県史」第142回:「学童疎開」

 学童疎開の話をするたびに、高校時代の先生を思い出します。その先生は学童疎開で静岡県にやってきて、詳細は不明ながらそのまま静岡県に住み着いたということなのですが、学童疎開での経験が非常に辛かったらしく、そのためか、戦争関係の歴史を研究されていました。静岡県の歴史研究者としては大変有名な方で、非常に多くの論文を執筆し、著作もあり、多くの自治体史にかかわっていて、大学の先生方も一目置く存在でした。私が歴史を学ぶ道を選んだのは、その先生の影響が大変大きいのですが、先生の歴史学はその基礎にあるのが学童疎開での辛さなので、戦争を恨み(これはOKなのですが)、国家を恨み、社会を恨み、徹底的に批判的スタンスで、戦争や国家、社会の裏を暴いてやるという態度で臨んでいるので、私は先生の歴史学を「ルサンチマンの歴史学」と呼んでいました。歴史への入り方は人それぞれなのですが、私などは単純に分からなかったことが分かる楽しさ、その奥行きの深さ、一生かかっても片付けきれない大きな存在にチャレンジすることのおもしろさなどが歴史を学んでいこうと思った理由なので、「ルサンチマンの歴史学」は、ある意味悲しい歴史学なのではないかと思うのです。逆に考えると、戦争はそこまで人を動かすほどの大きな影響をあたえてしまう出来事なのだということが、よく分かるわけです。
 それでは「概説 静岡県史」第142回のテキストを掲載します。

第142回:「学童疎開」


 今回は、「学童疎開」というテーマでお話します。
 学童疎開は、1944年(昭和19年)3月の閣議決定「一般疎開促進要綱」と「帝都疎開促進要目」から始まります。これを受けた次官会議決定「京浜地域人員疎開の措置要領」が、学童疎開について初めて言及しました。この時点では縁故先への転出を原則とし、4月末日までに希望を申請することとされていましたが、同時に希望があっても縁故先のない学童に対する集団疎開については考究中であるとされていました。
 これとは別に東京都は、3月「学童総会奨励に関する件」を通達し、縁故による疎開の奨励と東京都近県にある養護施設等を利用した疎開の実施を指示しました。6月に入り、静岡県では沼津市の片浜養護学園に品川区、荏原(えばら)区(荏原区は現在の品川区西南部で、1947年3月まで存在)の申し込み者を収容します。『品川の学童疎開資料集』によると、沼津市我入道曼陀ヶ原(がにゅうどうまんだがはら)の臨海学園には赤坂区(現在の港区の一部で、1947年3月に芝区、麻布区および赤坂区の区域をもって港区が発足)の学童、5校118人を収容しました。
 縁故疎開について、静岡県は1944年(昭和19年)4月から調査を始めました。例えば4月24日付けの小笠郡地方事務所から郡内の各国民学校長にあてた「疎開児童調査に関する件」では、
  県下に於ける児童疎開状況調査の必要之有候につき、四月二十日現在を
 以て御調査の上、左記様式に依り至急報告相成度候。
  追而 来る四月二十七日校長会の節御持参相成候。
とされています。志太郡青島町 現在藤枝市の青島国民学校の疎開受け入れ調査によると、9月以降に縁故調査児童が急増し、100人を超える児童を受け入れています。翌年の45年6月からはさらに激増したため、机、腰掛けが慢性的に不足し、分散授業を余儀なくされたとしています。
 44年7月に入ると集団疎開の受け入れについての協議が始まります。地方事務所単位の協議と東京都の疎開関係者の実地調査・協議が頻繁に行われました。8月10日、静岡への第一陣として、渋谷区の明和国民学校が熱海に到着し、以後、東京都の集団疎開の子どもたちが静岡県にやってきました。
 全国疎開学童連絡協議会編『学童疎開の記録』第一巻によると、荏原区から富士郡、引佐郡、富士宮市、駿東郡、静岡市、伊東町、伊豆長岡町へ約4100人、大森区から三島市、熱海市、藤枝町、焼津町、岡部町、伊東町、島田町、伊豆長岡町、函南村、浜松市、舞坂町、掛川町、鷲津町等に約8200人、蒲田区から沼津市、袋井町、修善寺町、磐田郡、土肥町、伊東町、御殿場町、焼津町、熱海市、気賀町、三ケ日町、清水町、島田町等に約4800人、渋谷区から伊東町、富士郡、庵原郡、修善寺町、土肥町、周智郡、熱海町、榛原郡、引佐郡に約5400人と、東京都に4区から合算しておよそ2万2500人が集団疎開してきました。
 疎開地での教育はどういう状態だったのかと言うことを、引佐郡井伊谷村の井伊谷国民学校の「昭和19年度学務雑件」で確認すると、事務上の形式からすれば「一般教育については、実質上の委託すること」となっていました。それは「帝都学童疎開実施細目」で「疎開先に於ける教育を都立国民学校の分教場の形式によるか、或は地元委託に依るかは、都と受入県との協議に依ること」となっていたことから、静岡県では「委託」方式をとったわけです。しかし44年11月に出された「東京都国民学校集団疎開教育実施要綱」では、東京都〇〇国民学校〇〇分教場と定めたようなのですが、疎開児童を引率していた教師は、子どもの病気への対応や物資と食料の調達に全精力を使い果たしていて、教育どころではなかったため、受入校の教師に「委託」せざるを得ませんでした。静岡市横内国民学校に疎開した引率教師は、「児童の教育学習の実際は、地元横内学校の各学年級に入れてやっていただき、私は毎日を生活の面に力を入れてやることに致しました」と回想しています。
 学習場所については、井伊谷国民学校の資料に静岡県の方針が掲載されていて、それによると、
 イ、  地元国民学校の初等科一年及二年は授業を半日とし、残り半日は教
   室全部を疎開児童に貸与すること。
 ロ、  日曜日は全校の教室、運動場を開放して、疎開児童に貸与するこ
   と。
 ハ、  理科教室、工作室、音楽室、裁縫室等の特別教室及講堂等も疎開児
   童の普通教室として使用せしむる様可成便宜を与へること。
 ニ、  疎開児童多数にして国民学校教室利用困難なる場合は、宿舎の広間
   を利用、学習場とすること。
となっています。
 県内の国民学校の「校務日誌」には「二部授業」とか「講堂使用」とか「午前授業を行なふ」などの記録を目にします。田方郡修善寺町の修善寺国民学校の事例を見ると、以下のようになっています。
  1、日課表
   日曜日は午前登校(四時間勉強)、他は左記に依る。
   起床 六・〇〇 宿舎清掃、洗面、整頓。
   朝礼 七・〇〇 修善寺境内 宮城遙拝、挨拶、訓話、体操、合唱。
   朝食 七・三〇
   自由時間
   坐学 第一時限 九・〇〇~九・五〇
      第二時限 一〇・〇〇~一〇・五〇
   昼食 一二・〇〇
   登校 一二・三〇
   授業 第三時 一三・一〇~一三・五〇
      第四時 一四・〇〇~一四・四〇
      第五時 一四・五〇~一五・三〇
   入浴 一五・〇〇~一七・〇〇
   夕食 一八・〇〇
   自由時間
   就寝 一九・四〇
   消灯 二〇・〇〇
  2、坐学の状況
    室は充分に間に合ふも、坐机なきため講義風の課目を之に当つ、教 
   室で味へない別種の楽しみ、規律を感ず。
  3、学校使用の状況
    現在は午後十一教室を疎開学童のために使用し、学校に於ては空教
   室にて授業を行ふ。
 次回は、「勤労動員」というテーマでお話しようと思います。

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