「概説 静岡県史」第151回:「日常生活の統制」
東海地方も梅雨があけ、本格的な夏なわけです(まぁ、それ以前から暑いが続いていましたが)。心なしが、風が吹けば(梅雨明け以前よりも風が湿っぽくない)、外では若干涼しいような気がしますが、室内はエアコンが無ければダメですね。自分の部屋は、エアコンはついているのですが、長年つけたことがなく、扇風機で何とかなってきたのですが、体温よりも気温が高いような状態では、扇風機の風も温風で、窓を全開に開けても(部屋の構造上、完全換気は無理)、室内の暑い空気が抜けていかない事態に陥っています。そのなかで、パソコンで物書きや調べものをするというのは(パソコンにも小型の扇風機を付けて、熱暴走を防いでいますが、結局その排気熱もあるわけで)、もはや限界です。ただ心配なのは、長年コンセントすら入れていないエアコンが、きちんと動いてくれるかどうかってことです(くだらない話題ですみません)。
それでは「概説 静岡県史」第151回のテキストを掲載します。
第151回:「日常生活の統制」
今回は、「日常生活の統制」というテーマでお話します。
日中戦争の開始とともに、県民の日常生活は戦争遂行に向けて再編成されました。国民精神総動員運動から始まった非常時国民生活様式確立運動は、人々の生活をさまざまな面で規制するようになり、「パーマネントはやめましょう」(1939年)、「生めよ殖やせよ国のため」(39年)、「ぜいたくは敵だ」(40年)、「欲しがりません勝つまでは」(42年)などの国策標語が次々に生み出され、周到な思想統一により生活面すべてで忍耐が強制されました。
1938年(昭和13年)の事変一周年記念日にあたり、静岡県では県庁屋上で記念式を挙行するとともに、市町村では国旗を掲揚し、県民は正午を期して一分間黙礼し、当日は各家庭でのおかずは一菜とし、一戸一品廃品を献納するように指示しました。廃品回収は、在郷軍人会、男女青年団、婦人団体、町内会、小学校児童らが挙げて行うこととしました。品物として「鉄屑、古釘、ブリキ缶、金属製玩具その他、銅亜鉛類、古銅鍋、火箸、鉛管片、鉄製玩具、錫類、錫板、アルミニウム古弁当箱、古アルミ鍋、同匙、同箸、煙草の銀紙」が対象とされました。
また、この記念日を期に静岡、浜松、清水、沼津、熱海の各市ほかで、防空訓練として一斉に灯火管制が実施され、静岡県内は完全に黒一色の闇となりました。その1か月後には、日常的に一般の街灯は管制されることとなり、広告看板、ネオンサイン、多灯式街路灯、門灯、社寺屋外灯、運動競技場や娯楽場の屋外照明など、標識街灯のみを例外として、すべて消灯が義務付けられました。また、エレベーターやエスカレーターも止められました。
これらは従来の演習管制とは異なるため、違反者はどんどん検挙し、300円以下の罰金あるいは拘留、科料等の厳罰に処す旨が報知されました。街の灯が消えることは、大衆心理を戦争に向けて組織することに役立ち、消費意欲の抑制に大きく影響しました。
1938年(昭和13年)7月8日、鋼鉄の消費統制に関する商工省令が公布されました。対象となった133品目の大半が日用品で、文鎮、本立て、鉛筆削り、シガレットケース、ライター、フォーク、スプーン、湯たんぽ、じょうろ、たらいや運動用具の砲丸、ハンマー、槍、円盤、スパイク、また楽器や楽譜台、タクトまでもが製造禁止または使用禁止となりました。七・七禁令として有名な40年公布の「奢侈品等製造販売制限規則」よりも前に、既にこのような統制が実施されていました。
39年に静岡県が各市町村に向けて出した「戦時生活連動要綱」は、生活程度の引き下げ、冠婚葬祭の簡素化、勤労の促進、物資の節約、貯蓄の励行と、その実行促進方法を逐一指示しています。これは国民精神総動員委員会による「国民生活要綱」と連動するもので、戦時下の国家の要請と地方行政が表裏一体であったことを示しています。40年8月21日、首相官邸で開催された国民精神総動員理事会で、冠婚葬祭の新体制について決議され、その内容を「〝華燭〟なき結婚式/モーニングも着るべからず/葬儀は花輪も飾らず」と新聞が報じると、静岡県では10月8日に「冠婚葬祭様式簡易化に関する件」を各市町村に通達しました。このように国家の要請を受けて、細部にわたって個人生活への介入、締め付けが行われることとなっていきました。従わない者、はみ出る者は、相互監視により「非国民」「スパイ」と名指しされ、人同士の関係性が壊されていくこととになりました。
軍隊や軍需工場への人的物的資源集中は、民需に支障を来すようになり、とりわけ食糧不足が深刻になりました。食糧難は39年(昭和14年)ごろから始まりました。国民精神総動員静岡県本部は、40年6月に「静岡県戦時食糧報国運動実施方策」を打ち出し、20%以上の節米を呼びかけました。実行にあたり、①七分づき米使用、②麦その他雑穀、豆類、芋類、野菜等の混食、③一週3回以上うどん、そば、パン、芋類代用食励行、または雑炊の随時実行、④米の飯以外の用途使用禁止、⑤完全咀嚼の励行、⑥そそぎ方を少なく、流失米を防止し、一粒も米を無駄にせぬこと、⑦共同炊事の工夫、と細かい方策が示されていました。
日中戦争は泥沼化し、いつ果てるともなく続き、人々の間には精神的弛緩がまん延し、不満が増大していました。経済統制の実施により商品取り扱い量が著しく減少して、廃業に追い込まれる業者が続出し、物資不足と品質低下も深刻な問題でした。また労働者の実質賃金も大幅にダウンしました。40年1月に成立した米内光政内閣のころには「米ない、炭ない、醤油ない、砂糖ない、味噌ない、燐寸ない、肥料がないからお米が作られない、本当によーない内閣だ」という今様が流行したと言われます。
特権的な戦争受益者の存在が民衆を刺激して、国民精神総動員運動への不満感を一層募らせており、政府は従来の統制と国民精神総動員運動の見直しに迫られていました。ここに近衛の新体制運動が登場してくるのです。1940年(昭和15年)8月28日、「国民を国家の経済および文化政策の樹立に内面より参与せしむ」「万民翼賛の国民組織」「公益優先、各団体すべて包含」をうたう声明が出され、10月、国民精神総動員運動に代わる大政翼賛会が発会します。しかし、新体制に期待する国民に示されたのは、以前よりも厳しい統制の強化拡大でした。
次回は、「配給制度下の日常生活」というテーマでお話しようと思います。
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