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「概説 静岡県史」第154回:「戦時下の社会紛争」

 8月8日の日向灘を震源とする地震が、南海トラフの想定域内での地震ということで、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表されたのには、少し驚きましたが、幸いに今のところ大きな変化はありません。「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」は、今回初めて発表されたので、最初は分からないことも多かったのですが、ちょうど週末にもなり、テレビで盛んに解説が行われたので、理解できてきました。この先、変化が起こらないとは限りませんが、いまのところ大丈夫なようなので、その意味では「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」についての認識を広める、良い機会だったと言えましょう。
 それでは「概説 静岡県史」第154回のテキストを掲載します。

第154回:「戦時下の社会紛争」


 今回は、「戦時下の社会紛争」というテーマでお話します。
 戦時下に重化学工業や軍需工業が発達し、県内には理化学研究所、日本軽金属、東洋製缶、日立製作所、日本鋼管、三菱重工業等の工場が設立されました。戦争遂行上必要な金属や機械類を生産する国策会社であるため、強引に工業化を進めていったことから、公害も激化し住民との間で様々な社会紛争を引き起こしました。住民たちは操業停止、公害除去装置の取り付け、損害賠償等を請求する住民運動を起こしましたが、この社会紛争は1941年(昭和16年)以降、新聞報道されなくなりました。工場が戦争や軍備にかかわるものである以上、公害を主張して反対することは反戦行為と見なされることから、住民運動が起こせなくなったためと、トラブルの発生は、銃後の国民士気にかかわるものとして隠されたためだと思われます。
 1926年(大正15年)東京人絹吉原工場が、富士郡島田村、現在富士市依田原に設立されました。これ以後、島田村の工業化が進みます。依田原区民は土地買収等工場設立に協力するとともに、工場の従業員になることで賃金収入を得ました。しかし、工場の生産能力の拡大に伴い、悪臭や有毒ガスの問題が生じ、36年(昭和11年)11月27日に静岡県会で富士郡選出の金子彦太郎議員が汚水や有毒ガス発生に対する取り締まりに関する質問をしました。その内容は、有毒ガスや悪臭のため工場で働く人は健康上重大な影響を受け、知的障害をきたし、再び活動できない状態となっており、さらに付近の住民の健康が破壊され、中毒的疾病や死亡率が増加、金属類、家具も腐食しているとして毒ガス除去対策を要求するものでした。さらに同年12月、金子ら地元県会議員4人が島田村会議員24人の署名をもって、斉藤樹知事に陳情を行いました。県は工業課が試験施設を作り、有毒ガスや廃液の被害問題について解決に乗り出しました。37年2月、島田村は「会社は誠意を以て設備上の不備改善に関しては、現時に於ける最善の方法により設備の万全を期する旨、会社側の言明を信頼して急速円満解決を見る」という声明書を出して会社と妥協しました。「当工場は本村の経済上緊密なる関係を有するに至り、会社事情の盛衰は直ちに本村の将来に重大なる影響を及ぼすに至り」という発想で、会社と抗争するのをやめてしまったものと思われます。しかし島田村は、37年中に2回の出水により汚水が耕地に浸入し農作物に被害を与えたことに対して、見舞金交付を要求しています。
 沼津では、37年9月に沼津水産会など漁業関係者一同が東京人絹沼津工場設立反対の陳情を行いましたが、会社は反対を押し切って同年12月、レーヨンの短繊維であるステープルファイバー(通称スフ)専門工場を設立し、操業を開始しました。沼津工場の操業による問題は、人絹工場で使用される水が多量であるため、付近の井戸および組合水道が出なくなり、飲料水や入浴に困難をきたすようになったことです。翌年の6月には工場内の硫酸製造工場から亜硫酸ガスが放出され、付近の住民が市役所に被害状況を訴えました。また、工場から観音川に汚水を垂れ流したため、河口から流出する汚水は濁色で悪臭を放ち、多数の魚類が死んだことから、漁業者の死活問題であるとして漁業組合から操業停止の陳情がなされました。工場誘致にあたり、毒ガス、汚水問題に対して、市において補償するとの一札があったため、沼津市は苦境に立たされました。38年6月18日付け「東京日日新聞」静岡版によると、沼津市は6月17日に「工場の即時停止、硫酸工場を撤廃し、飲料水問題を解決し、人絹工場の設備を完全ならしめ被害なきように」との意見書をまとめたとされています。県は地方工業化委員会を設置し工場誘致に力を入れていた時でしたが、東京人絹に対しては設備の完全執行を厳命しました。会社は17日から有毒ガスを排出する硫酸工場の操業を中止し、施設が完全になるまで工場の一部を休むこととし、さらに被害を受けた住民に見舞金を出すことにしました。11月になると操業を中止し、設備の改善に努めていた沼津工場内の硫酸工場は、数日前から火入れをし、9日から硫酸の製造を開始しました。これに対し沼津市会は「一寸でも毒ガスが発生したら工場の撤廃を承知されたい」との強硬な申し入れを行っています。しかし、実際にはこの後も汚水、悪臭はやみませんでした。
 1939年(昭和14年)3月に創立総会が開かれ、日本軽金属が誕生します。アルミニウムなどの軽金属は航空機その他の軍需材料として重要なものであるため、これを生産するための国策会社の設立が必要とされたのです。それ以前に、電力を得やすい庵原郡蒲原町に電解工場を造り、そこに近い清水市にアルミナ工場を設立することが決定されていました。
 この動きに対して、土地問題と汚水問題の2つが生じました。蒲原町では地主が中心となり38年6月、土地不売を決議します。39年4月には汚水放流を懸念した駿河湾水産擁護同盟が山崎厳知事に面会し、工場設立反対の陳情を行いました。県は時局的見地からアルミナ工場の設立を進めたかったのですが、先祖伝来の土地を唯一の生活基盤としている農民のことも無視できませんでした。しかし、39年9月13日付け「静岡民友新聞」によると、ある農民は会社に土地を売却しないため圧迫を受け、農業用水路はふさがれ、耕地内に無断で道路を敷設され、未収納の麦はそのまま土中に埋められる被害を受け、警察に訴えましたが、取り上げられなかったとされています。39年3月、土地買収が終わります。
 同年6月、蒲原町漁業協同組合は漁業ができなくなるとして、会社に対して補償を要求しました。この問題は県当局の調停により、7月会社が漁業補償として6万2000円を漁業組合に支払うことで解決しました。清水のアルミナ工場新設に伴う汚水禍を最小限にとどめるため、県は日本軽金属と漁業者との間に立って斡旋しました。清水の漁業者は漁業補償を県に一任した結果、40年4月、日本軽金属などの3会社が総額65万円を支払うことになりました。
 40年、蒲原工場がアルミニウムの精錬を開始します。工場が排出するフッ化水素ガス(HF)による大気汚染が発生しました。フッ化水素は強い刺激臭があり、どのような割合であっても水に溶ける、不燃性のガスです。フッ化水素の蒸気は、目、粘膜、上気道に強い刺激を与え、腫れが上気道の潰瘍を引き起こす可能性があります。操業開始2年後には、蒲原町中之郷新田一帯の水田に被害を与えます。農民は結束して補償の要求を行い、補償金を出させました。しかし被害は広がり、44年には桑の汚染により蚕被害が生じ、庵原郡、富士市、富士宮市の養蚕業が壊滅しました。これも交渉して補償を得ました。柑橘園にも被害が生じ、蒲原・富士川両町で被害を訴えて補償契約を成立させました。5回の分割支払い中、2回支払って敗戦となりました。
 次回は、「在留朝鮮人とその組織化」というテーマでお話しようと思います。

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