見出し画像

「概説 静岡県史」第137回:「小作料統制と農業団体統制」

 先週、急に忙しくなって、「概説 静岡県史」の続きが書けなさそうとぼやいていましたが、いよいよ現実になってきました。今までの業務ならば、先の見込みが立ったのですが、唐突にいろいろな案件が飛び込んできて、1つ終わると、それを見計らったかの如く、別案件が入ってきて、おまけにこれまで放置されていた問題の当事者にならざるを得ないことが分かり、その対策を検討する必要があり、急ぎ明日からそれに取り掛からないとならず、他にもやらなければならない業務があるので、もういっぱいいっぱいです。なんとかして、時間をひねり出さないと、本来業務にも影響がでてくる可能性が高くなってきてしまいました。どうにかしないと、これはまずいぞ‼
 それでは「概説 静岡県史」第137回のテキストを掲載します。

第137回:「小作料統制と農業団体統制」


 今回は、「小作料統制と農業団体統制」というテーマでお話します。
 農地統制に関連して、高率な小作料に対しても制限が加えられることになりました。1938年(昭和14年)4月1日に公布された「国家総動員法」第19条が、「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り価格、運送賃、保管料、保険料、賃貸料、加工賃に関し命令を為すことを得」と規定し価格統制の根拠規定となっており、これに基づき39年9月18日に出された「九・一八停止令」が10月に「価格等統制令」として公布されました。同令第2条「価格等は昭和十四年九月十八日に於ける額を超えて之を契約し、支払又は受領することを得ず」という規定を小作料にも適用するため、12月「小作料統制令」が出され、小作料は引き上げが禁止されて39年の水準に凍結されました。「小作料統制令」第9条で「貸主は本令の適用を免るる為、耕作を目的とする請負、其の他の契約を為し、又は何等の名義を以てするを問はず、借主に対し農地の賃貸契約又は永小作権、若は賭地権の設定契約に定めざる財産上の利益を求むることを得ず」と規定されて、地主の土地所有権に対しても厳しく制限が加えられることになりました。小作料の引き上げに関して21年(大正10年)から46年にかけての推移は、20年代は低減傾向にありましたが、30年代に入ると上昇傾向となり、40年代には再び下降し始めており、「価格等統制令」が小作料額の上昇に歯止めをかける役割を果たしたと言えます。
 ただし、「価格等統制令」はあくまでも小作料の上限を一定の水準に制限するためのものであり、小作料額の不均衡や減免条件が不明確な場合を是正するものではないのですが、「小作料統制令」はこの点にもメスを入れ、「小作料適正化」の方針を示しています。そのための方法として、①第四条の「農地調整法」によって設置された市町村農地委員会による場合、②第六条の行政官庁の命令による場合、③第七条の裁判、裁判上の和解、調停による場合の3つを想定しています。これらの方法によって小作料の適正化が決定された場合、農地所有者がこれに違反した時は、「国家総動員法」第三条に基づいて3年以下の懲役または5000円以下の罰金が課せられることになりました。その意味で「小作料統制令」は、土地所有権に対する制限を法制化したものだと言えます。
 しかし、この小作料適正化事業が必ずしも順調に進展したわけではありません。静岡県では39年に「小作料統制施行規則」と、「静岡県小作料統制補助規程」が定められ、市町村農地委員会が行う小作料統制事務費用に対して1町あたり4円以上の補助金を交付することにしましたが、その対象はわずか16市町村にすぎず、その上補助金交付後、事業は実施に至っていませんでした。そこで43年に「適正小作料指導方針」を定め、小作料統制実施指導村を指定して市町村農地委員会による小作料適正化事業の実行を促しました。そのため指定を受けた60か町村が補助金を申請しました。県としては、その後も毎年60か町村を小作料統制実施指導村に指定して、47年までに240か町村を対象に徹底化を図る方針でした。ところがこの方針に基づく計画が実際に実現されたかは疑わしいのですが、小笠郡土方村や駿東郡北郷村、田方郡宇佐美村などのように適正小作料の設定が認可された町村も存在し、「小作料統制令」を受けて在地において小作料の適正化の実現に向けた要求が出されているところもあります。実際に認可された小作料は、それまでの小作料に対して15~20%の引き下げが実現しています。
 農業に対する統制の中で、農業団体に対する統制はかなめになるものでした。特に産業組合と農会は国家的統制機関として重視されるようになります。1940年(昭和15年)に「農会法」が改正され、統制機関としての地位が法的に認められます。39年に「米穀配給統制法」、40年に「臨時米穀管理規則」、41年に「農地作付統制規則」、「農業生産統制令」が公布され、米穀等の供出割当・管理や農業生産に関する統制の権限が農会にゆだねられていき、農会の権限が強化されました。なかでも「農業生産統制令」は、農会が各町村単位での農業生産計画を樹立し、実行する部隊としての役割を担うことになりました。
 また産業組合は「米穀配給統制法」などを通じて流通面での統制主体として位置づけられ、静岡県でも「静岡県米穀配給統制要項」を改正し、県内で「生産されたる米穀にして販売の供するものの集荷取扱をなし得るもの」として、静岡県購買販売利用組合連合会と静岡県米穀卸売商業組合が指定されます。この二団体が県の指示を受けて販売米を統制することになりました。
 1943年(昭和18年)3月に公布された「農業団体法」により生産統制機関としての農会と流通統制機関としての産業組合が統合されることになりました。静岡県で各団体代表により構成された設立準備委員会が開催されたのは同年12月16日のことです。ここで、今松治郎知事は次のようにあいさつしました。
  永い歴史と伝統を持つ諸団体はゝに発展的に解消をとげ、強力なる新農
 業会の誕生をみるのである。農業会は国策に即応して農業の整備、発達を
 はかるもので従来の如き自由主義的性格を有する、すなはち会員のためと
 か組合員のためとかいふ如きことを主とすることは全然認められない。正
 に国家的機関として国家的目的達成のための農業団体でなければならな
 い。

 このあいさつに、戦争目的のために官製団体として衣替えさせられた農業会の性格が表れていると言えます。この準備委員会の協議を経て、静岡県農業会設立総会が同年12月25日に開催されることになりました。統合された団体は県・郡レベルの65団体で、農会、産業組合だけでなく、県内の農業諸団体はほぼ傘下に属することになりました。県レベルの農業会が設立されると、市町村においても各地方事務所からの指示で市町村農業会の設立が促されました。例えば磐田郡敷地村、旧豊岡村、現在磐田市では、44年1月22日に磐田地方事務所から「市町村農業会設立委員任命等に関する件」が出され、同年1月26日に設立委員会が開催されました。設立委員5人の辞令が交付され、県係官の立ち合いのもとで農業会が発足しました。このように市町村レベルでの農業会は、県による半ば強制的な指令によって設立されました。
 前述したように、39年に「米穀配給統制法」が出されて米穀の集荷・配給が産業組合により統制されることになり、40年に「臨時米穀管理規則」が出されたことで、米穀は国家管理のもとに置かれることになりました。静岡県では、その徹底を図るため、静岡県農会と産業組合中央会静岡県支部の連名で、農家にビラを配布しました。そこには農家が守らなければならない点を5項目にまとめています。
 ①農家の販売米は総て政府が管理すること、②管理米の割り当ては市町村農会で行うこと、③管理米は産業組合へ寄託すること、④管理米は産業組合へ委託販売すること、⑤米穀の調整は共同作業ですること。
 米穀の町村割当供出制は、42年2月に公布された「食糧管理法」により、国家管理の対象を米麦のほか、雑穀、デンプン、イモ類、メン類、パンにまで広げ、主要食糧全般が国家の管理下に置かれることになりました。この「食糧管理法」は、戦後の農業も大きく規定することになります。
 次回は、「戦時林業統制と遠洋漁業の解体」というテーマでお話しようと思います。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?