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「概説 静岡県史」第149回:「職業紹介所と徴用」

 各地で夏の高校野球が始まっています。静岡県でも昨日、今日と県内各地で野球が行われましたが、この暑い日中に、太陽を遮るものが何もないところで野球なんて、クレージーです。それを応援するブラスバンドや応援団はもっとクレージーです。野球をやっている子たちはやりたくてやっているからまだ良いですが、ブラスバンドの子たちはあくまでも友情応援ですから、もし体調不良で倒れても、だれも責任をとってくれません。それでも連れて行かされるのですから、かわいそうです。気候が今までと違うのに、そのような部分が変わらないのは、大人の怠惰だと思います。子どもが少なくなっているのに、そのような部分に配慮できないなんて、日本は戦争中の行動をまだ引きずっているとしか思えません。
 それでは「概説 静岡県史」第149回のテキストを掲載します。

第149回:「職業紹介所と徴用」


 今回は、「職業紹介所と徴用」というテーマでお話します。
 1937年(昭和12年)の日中戦争開始後、軍需産業が活況を呈します。9月18日付けの静岡県学務部長通牒では、陸海軍部隊、軍作業庁、軍需工場の労務員の求人が増加すると見られるので、その充足を迅速に行うようにとの指示が出され、翌年4月7日付けの学務部長通牒でも戦争の長期化に備えた軍需労務動員の充足が指示されました。軍需産業の求人は、県内各地に設置された職業紹介所を通じて実施されました。職業紹介法で、職業紹介所は市町村立が原則とされていましたが、38年(昭和13年)、政府が提出した職業紹介制度改正要綱は、職業紹介所の国営化を図ったものです。その提案理由によると、「現在の情勢下で諸政策を遂行するには、労務の適正な配置を図る必要がある。当面の問題としては、軍需労務の充足、事変に伴って生ずる職業の転換、帰還軍人や傷痍(い)軍人の職業あっ旋等に万全を期さなければならない。今後の問題としては、生産力の拡充計画遂行上、労務の調整について十分な配慮が必要である。このためには、職業紹介機関の機能を発揮させ、国の政策に順応しつつ、国民を適職に就かせ、需要者には適材を供給し、配置の適正と需給の円滑を図ることが肝要である。それには、職業紹介網の全国的分布と内容の充実を図るべきである。それと同時に、連絡統制の組織を強化し、全国の機関を打って一丸とし、統一ある活動が出来るよう整備する必要がある」とされており、職業紹介法改正案は同年4月1日に公布、7月1日に施行されました。改正法のポイントは、①職業紹介事業は政府が管掌する。その目途は全国的に労務の適正な配置を図るにある。②職業紹介事業にあわせて、政府は職業指導、職業補導(現在の職業訓練)等の事業を行う。③第一線の運営機関として、職業紹介所を全国主要の地に配置する。紹介業務の一部を市区町村長に行わせ、かつ市区町村ごとに連絡委員会を置く。④国以外の者が行う職業紹介事業は原則として禁止する。労務供給事業と労務者募集は許可制をとって規制する、というもので、職業紹介所は国営となりました。
 県内で国営化されたのは、静岡市(清水市に出張所)、浜松市、沼津市(田方郡三島町、賀茂郡下田町に出張所)、小笠郡堀之内町、現在菊川市でしたが、富士郡大宮町 現在富士宮市、榛原郡島田町、現在島田市、磐田郡中泉町、現在磐田市の町営職業紹介所は公営として存続しました。同年11月に出張所は独立し、公営職業紹介所も国営化されました。41年1月31日、単なる職業紹介だけでなく、国家の要請に従って国民の職業指導を行う観点から国民職業指導所と改称されました。42年には引佐郡気賀町、旧細江町、現在浜松市、周智郡森町、榛原郡川崎町、旧榛原町、現在牧之原市、賀茂郡伊東町、現在伊東市に増設され、14か所となりました。さらに44年3月1日には国民勤労動員署と改称されます。国民勤労動員署は、軍隊からの召集令状に次いで恐れられていた徴用令書を発行する組織でした。徴用令書を受け取ると、身体に支障のない限り、指定された工場などの業務に従事することが義務づけられていました。このように職業紹介所は、労務動員政策全般を推進する機関へと変わっていきました。
 軍需工場の求人は、職業紹介所を経由して各町村に送付されました。横須賀海軍工廠、豊川海軍工廠(39年12月に開廠)、陸軍名古屋造兵廠、陸軍相模造兵廠などの軍作業庁の求人票が多く、民間軍需工場の募集も多数ありましたが、軍需工場が活況を呈する一方で、中小商工業者の中には転廃業を余儀なくされる者が続出しました。38年1月に政府が物資動員計画を決定して資材の供給などで軍需工場を優先し、また配給統制を強化したためです。38年7月20付け「東京日日新聞」静岡版では、物資動員計画による県内の失業者が、遠州織物工場を中心に15,000人に達する見込みであることを報じています。これに対して県は、軍需工場への就職あっせん、満州移民奨励、転業資金貸付などの救済策を講じましたが、折からの軍需産業活性化による労働者不足のため、軍需産業への転業者が多くみられました。特に39年の配給統制以降、転廃業者が増加しました。戦争の長期化による軍への応召者も増加したため、熟練労働力の低減という矛盾が顕著となってきました。
 39年1月20日に「国民職業能力申告令」、同年7月15日に「国民徴用令」が相次いで施行されました。申告令は16歳以上50歳未満の男子で、厚生大臣指定の職業に3か月以上従事する者などに登録義務を課した法令で、徴用令は募集等の方法によって所要の人員を得ることができない場合のみ、申告令による要申告者の中から徴用する、という内容でした。これにより職業選択の自由はなく、徴用者は指定された工場に行かねばらなくなりました。これ以降、徴用の対象となる年齢層は拡大し、また指定業種以外の者にも適用され、さらに女子へも適用されるようになりました。43年7月の改正では12歳以上60歳未満の男子、12歳上40歳未満の未婚の女子のほとんどがその対象となりました。
 徴用の手続きは、出頭要求書が管轄国民職業指導所長から町村長を経て本人に送付され、指定された日時に指定場所に出頭し、選考を受けます。その結果、徴用が決定した者には、徴用令書が送付されました。これがいわゆる「白紙」です。令書には徴用先、業務、職業、徴用期間、出頭日時などが記載されていました。このように徴用された者の出発や帰郷にあたっては応召者に準じて送迎するようにとの指示も出されました。静岡県内各市町村資料によると、徴用が増加するのは、41年以降で、この段階になると、徴用令書の職業欄には未経験(各種作業)と記載された者がほとんどとなり、労働の質の低下がうかがわれます。徴用期間は、ほぼ2年間と定められていました。庵原郡庵原村役場、賀茂郡小室村役場、賀茂郡下河津村役場文書の徴用令書に記載された徴用先、磐田郡龍山村役場の「被徴用者名簿」に記載された徴用先を見ると、軍作業庁が全体の約半数を占めており、静岡県外の徴用先軍需工場は東京、神奈川、愛知に集中しています。龍山村出身者には、43年以降、7人もの被徴用者が戦闘に巻き込まれ、戦死又は戦病死しています。うち5人はソロモン群島等の南太平洋、1人は朝鮮半島南岸での戦死・戦病死者です。
 徴用されると、個人の事情によって徴用の解除を求めることや離職することは難しく、休暇を取ることも煩雑な手続きを必要としました。例えば龍山村から豊川海軍工廠に徴用された人は、母の入院を理由に1週間の農業手伝いをするため休暇願を申請しましたが、それには村長の証明も必要でした。ところがやがて休暇さえも次第に認められなくなりました。43年10月12日に豊川海軍工廠から龍山村長にあてた文書には、農繁期休暇廃止の方針が伝えられています。一方、徴用解除はさらに困難でした。庵原郡由比町に住む被徴用者の母が、徴用先の東京陸軍兵器廠補給長にあてた徴用解除願では、父親の死亡によって一家の生計の維持が困難になった事情を訴え、町長の証明を付して解除を申し出てたのですが、不許可になっています。このような嘆願書は比較的多く残っていますが、多くの場合、個人や家族の願いはほとんど顧みられることはありませんでした。43年12月に下河津村長から静岡県知事にあてた陳情書は、出頭を命じられた人物が漁場の船長として40人余りの漁夫を使役してブリ網漁に従事しているので、この人物を引き抜かれると漁業が成り立たなくなり、生魚の供給にも影響が出るとして徴用猶予の陳情したものです。これに対する返答は不明ですが、徴用が地域社会に対する配慮がまったくなかったことを示しています。
 次回は、「労務動員政策の破たん」というテーマでお話しようと思います。

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