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「概説 静岡県史」第132回:「戦時における社会行政」

 明日は東日本大震災から13年です。あの時、福島第一原発の事故で、世界的に大きな衝撃が走り、国内においても非常に悲惨な原発事故に対して、脱原発の声が高くなり、以前から原発に違和感を感じていた自分としては、これで何かが変わるかと期待していましたが、少なくとも現時点において日本という国は変わっていないように思います。それどころか、ほとぼりが冷めたころを見計らって、いまだに福島第一原発の廃炉作業に伴い、放射性廃棄物の処理に関する議論がままならないにもかかわらず、原発稼働を延長させ、各地の原発を再稼働させようと必死になっています。この国は一体何なのでしょうか。
 それでは「概説 静岡県史」第132回のテキストを掲載します。

第132回:「戦時における社会行政」


 今回は、「戦時における社会行政」というテーマでお話します。
 1937年(昭和12年)8月なかばに第三師団に動員令が下ると、静岡県の出動者が一挙に増えたため、知事は「出動者の遺家族救恤に全力を尽くすこと」を声明しました。日中戦争初期の出動者の特徴は、現役兵に比べ応召者の比率が高かったことです。出動軍人全体の統計はないため、磐田郡敷地(しきじ)村、旧豊岡村、現在磐田市の事例を参考にすると、38年4月の現役13人、応召軍人23人、同年12月現役14人、応召28人、除隊帰郷9人、39年5月現役25人、応召23人、除隊帰郷15人、同年11月現役26人、応召27人、除隊帰郷23人で、大量の動員に応召者で対応したことが分かります。初期の応召者が38年末ごろから除隊が始まり、新しい応召者に取って代わるとともに、現役兵の比率が高まりました。応召者の数自体は同水準ですが、「独立の生計を営まざる若き応召兵」へと、年齢は次第に低下しました。敷地村の世帯数は38年12月時点で約290戸、そのうち38世帯、42人が現役または応召されて出動していました。世帯数比で13%という高率で、一家に2人以上の場合もありました。動員世帯比率の高さは、一家の生計の中心をなす年齢層が多かったこととも重なり、遺家族の救恤は急務となりました。
 当初の軍事援護は、37年に「軍事救護法」から改称された「軍事扶助法」による生活扶助を主たる柱として、「軍事扶助法」で扶助できない遺家族層を対象とする軍事扶助静岡県地方委員会の活動、市町村の援護活動がそれを補助しました。「軍事扶助法」の生活扶助は、現役兵・応召者の戦死、傷病、その他出征のため生活困難になった場合、1人1日40銭前後を支給しました。支給額は都市部と農村部で差があり、物価高騰に伴う生活困難増大の中で、少しずつ支給額が増額されていきました。
 この「軍事扶助法」による生活扶助の実例を、敷地村の38年12月時点を見ると、6世帯あります。当時、既に戦死者が2人、またそれ以前の記録で傷病者が3人確認されるので、ここでの扶助は戦死者、傷病者家族に限られていたように思われます。支給基準は非常に厳しいものでしたが、県全体の支給戸数は、37年9月で3000戸を超え、年末までに1万戸、37年度の支給総額は118万円に上り、前年度の17倍に達しました。38年度はさらに214万円に増加しました。38年1月の県経済部の県内30か町村調査によると、軍事扶助を受けている戸数は「応召者数の一割乃至三割」でしたが、「各町村一致しての希望は軍事扶助の適用範囲を相当程度に拡大する事」でした。
 軍事扶助静岡県地方委員会は、帝国軍人後援会静岡支会、県国防協会、日赤静岡県支部、愛国婦人会静岡支部など軍人援護に関係する7団体が加盟する組織です。「軍事扶助法」の対象外家族、「軍事扶助法」の不足を補う扶助を行いましたが、37年末の対象者は全県で500戸のみでした。県レベルの組織の主たる出費は、歓送迎、慰問、駅などでの出征兵士に対するねぎらいである犒軍(こうぐん)に対してのものでした。これに加えて市町村は独自の生活扶助を実施していました。静岡市では38年7月時点で生活扶助864戸、その他医療、助産、埋葬、生業などの扶助を実施しています。このうち生活扶助費は1戸あたり1日最低10銭、最高1円50銭、月あたりの出費は1万6000円に達し、単純に年間換算すると20万円弱となります。38年の静岡市の経常歳出が170万円程度だったことを考えると、市にとっても、税金とは別に「募金」を強いられる市民にとっても、大きな負担でした。敷地村の場合は、38年7月時点で、27戸の全出征世帯に慰問金として毎月一律50銭ずつ支給され、この他5戸に対して月1円50銭の生活扶助金を支給していました。37年7月から38年末までの1年半ほどの負担総額は850円に達しています。国家や県レベルの軍事扶助が不十分だったために、居住する市町村により生活扶助にかなりの格差が生じていたわけですが、農村部で金銭以上に意味を持ったのは労働力奉仕でした。県は、37年9月以降、秋の収穫・播種、春の播種、植え付け、田植えなどに際して、部落ごとに応召家族農作業援助のために勤労奉仕班を結成するように促しました。38年1月時点の調べでは、県内で3724班、8万8083人が参加し、労働力奉仕を受けた戸数は8224戸におよびました。多数の応召者だけでなく、農耕用の馬の徴発、軍需工場への労働移動による労働力不足が重なる中での勤労奉仕運動は容易ではありませんでしたが、戦時にふさわしい隣保相助精神の発現として、軍事援護の重点施策とされました。
 このように始まった軍事援護事業でしたが、戦争の長期化に伴い、様々な問題、矛盾が生じました。第一に軍事援護は、県庁内に臨時軍事援護部が設置され、諸団体は軍事扶助静岡県地方委員会により事業分野の調整が図られているはずでしたが、軍事援護事業の不統一、分散、重複などが県会でも問題にされ、事業の統一的指導と実施主体の確立が要請されていました。第二に、県や市町村の補足的な援護活動の財源は、ほとんどが寄付金や強制的な各戸割り当て募金に依存していました。しかし、開戦1年もすると資金募集は難航し始め、一方で増税に直結する公的援助への切り替えも困難でした。第三に、国家の公的援助の長期化と拡大は「恩恵に狎れ所謂権利思想を生ずるが如きこと」、「服役に依る代償的思想を抱」く傾向へ、当局の不安を増大させました。欧米的として否定されてきた権利思想の復活は、摘み取る必要がありました。第四に帰還者の増加に伴う再就業問題、大量に生じた傷痍軍人対策、そして戦死者への下賜金をめぐる遺族間の相続紛争、乱費問題などです。
 これらの課題を解決するために、1938年(昭和13年)末以来、軍人援護団体の統一化が推進されました。中央では天皇の権威を借りて恩賜財団軍人後援会という形で統一を図り、県内でも11月に軍人後援会静岡県支部が設立されます。次いで39年2月、県は銃後後援団体の整備強化に関する通牒を発し、市町村内の軍事後援諸団体を銃後奉公会として統一することを指示します。従来は戦時の臨時的な団体が多かったのですが、この銃後奉公会は戦時平時を通じて活動する恒常的団体とされました。その目的は、国民皆兵の本義と隣保相扶の道義に基づく軍事援護の実施であり、軍事援護は兵役が国民的義務である点から出発すると、援護の中心はあくまで地域の自発的な共助精神にあることが再確認されました。会員は全戸加盟とし、住民税額に応じて会費を負担することとされ、39年中に県内全域に設置されました。こうして諸団体の統一と資金問題は解決しました。また、戦没者遺族の紛争については、市町村ごとに軍事援護相談所の設置が奨励されました。
 しかし、太平洋戦争開戦に伴い、援護対象は再び急増しました。44年1月の県内務部通牒では、銃後奉公会に専任職員を最低でも1人置くこと、地域役職者を網羅した銃後奉公会委員の設置、庶務部、援護部、軍事援護相談所などの部制の整備が指示されるとともに、財政上の理由から応召者・現役軍人家庭からも応分の拠出を求めました。出征者家族の経済的保護という面は破綻しつつあったと言えます。
 戦時における社会行政は、国家の重要政策分野として浮上しました。軍事援護事業以外にも、大字ごとに1人の配置を目指した方面員制度の急速な拡大、医療保護事業における無医村無産婆村克服政策、県内各所の健康相談所の設置と年一回の健康診断の励行、国民健康保険制度の普及、母性および児童保護事業面での妊産婦保護政策、常設および季節的保育施設の拡充などがありますが、これらの施策はいずれも軍事目的、不平不満を顕在化させないための銃後の社会的安定、兵士と労働力を培養する人口政策に沿ったものであり、防貧を重視したこれまでの社会事業の柱をなした経済的保護分野は後退しました。そして華々しく始まった新しい社会事業政策も、戦局の悪化の中で尻すぼみとなり、精神論への傾斜を深めていきました。
 次回は、「戦時工業再編と統制」というテーマでお話しようと思います。 

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