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「概説 静岡県史」第134回:「工業の構造変化と労働力の動員」

 まだのところもあるかもしれませんが、学校は春休みに入っていますよね?それとともに、あちらこちらで人事異動のニュースが出ています。喜んでいる人、落ち込んでいる人、いろいろでしょうが、某政令市の教育委員会の話もありましたが、多くの勤め人にとってはどうしようもない部分もあるでしょう(そういう私も、若干落ち込み気味なので、こう言ってある意味自分に言い聞かせているわけですが)。しかし、人事っていったいどうやって決めているのか、本当に謎です。こういうのは、おそらく知らない方が良いのだろうとは思うのですが、気になることではありますね。
 それでは「概説 静岡県史」第134回のテキストを掲載します。

第134回:「工業の構造変化と労働力の動員」


 今回は、「工業の構造変化と労働力の動員」というテーマでお話します。
 はじめに、戦時体制化の過程にあった1936年(昭和11年)から42年までの、職工5人以上の工場の従業員数の変化を見てみましょう。
 総数では、日中戦争開始前の36年は8万5104人でしたが、開戦後漸増し39年には10万9562人となります。しかしこれ以後は、前回見た工場数と同様に漸減していきます。戦争の進展とともに増産が叫ばれていたこの時期に、工場従業員が減少したのは、労働力を確保できなかったことを示すものだろうと考えられます。
 戦前の静岡県工業を代表し、昭和恐慌後も増加しつつあった紡織工業は、36年に53%にあたる4万4793人の従業員がいましたが、以後相対的に減少し、特に39年以降は急減、42年には31%の3万789人となります。これに対し機械器具工業と金属工業従業員数は漸増を続けました。36年に38%の7099人しかいなかった機械器具工業の従業員は、42年には24%、2万4121人となります。構成比はまだ少数ですが金属工業も36年に2%の1429人が、42年には6%の5990人となります。42年の従業員数を36年と対比すると、機械器具工業は3.4倍、金属工業は4.2倍となります。
 このような伝統的な紡織工業の地位低下と機械器具工業の地位向上は、戦時重化学工業化の進展に対応するもので、43年以降はさらに加速したと思われますが、統計がないため確認できません。「職工」の男女別構成は、36年に男性3万7849人、女性4万7526人で女性の方が多かったのですが、40年以降は逆転し、42年には男性5万5644人、女性4万5524人となりました。これは「国民徴用令」をはじめとする戦時労働力労務動員政策の影響と考えられます。
 次に部門別工場生産額の変化を見てみましょう。
 1936年(昭和11年)には、紡織工業が総額の50%にあたる1億6972万円を占めていましたが、開戦後の42年は21%、1億676万円となります。代わって首位を占めたのが化学工業です。化学工業は統計上、製紙業、製油業を含むため、相対的に見て従業員数が少ないにもかかわらず生産額は多いことから、生産性の高い大規模工場が主流を占めていると考えられます。化学工業に次ぐのは食料品工業と機械器具工業です。特に機械器具工業は36年の1619万円から、42年1億1218万円と約7倍の伸びを示し、構成比も5%から15%へ急上昇しています。軍需工業化に伴う機械メーカーの発展を示していると考えられます。
 このように36年から42年のわずか6年間で静岡県の工業構成は大きく転換しました。産業革命以来、軽工業を中心に展開してきた工業構成が、戦時重化学工業化の過程で、機械金属工業中心の重工業編成へと移行したと言えます。そこで発芽した機械金属工業などは、戦後の静岡県工業の発展につながります。
 1936年(昭和11年)『静岡県統計書』に記載された鉱夫人員100人以上の鉱山をあげると、賀茂郡稲生沢村、現在下田市ほか2か村の河津鉱山(主要鉱種は、金銀鉱・硫化鉄鉱・マンガン鉱、生産額118.1万円、鉱夫人員552人)、賀茂郡仁科村、現在西伊豆町の天城鉱山(主要鉱種は、金・銀・金銀鉱、生産額3.8万円、鉱夫人員160人)、田方郡上狩野村、旧天城湯ヶ島町、現在伊豆市の持越鉱山(主要鉱種は、金・銀・金銀鉱、生産額287.5万円、鉱夫人員1009人)、田方郡土肥村、現在伊豆市の土肥鉱山(主要鉱種は、金銀鉱、生産額220.7万円、鉱夫人員508人)、田方郡修善寺町、現在伊豆市の大仁鉱山(主要鉱種は、金・銀・金銀鉱、生産額17.7万円、鉱夫人員405人)、田方郡土肥村の清越鉱山(主要鉱種は、金銀鉱、生産額2.2万円、鉱夫人員103人)、安倍郡井川村、現在静岡市の金沢鉱山(主要鉱種は、金・銀、生産額17.8万円、鉱夫人員121人)、磐田郡佐久間村ほか1か村、現在浜松市の久根鉱山(主要鉱種は、硫化鉄鉱・銅鉱・沈殿銅、生産額80.5万円、鉱夫人員330人)となっています。
 通商産業大臣官房調査統計部編『本邦鉱業の趨勢50年史』資料編の統計から、戦時下鉱業の動向を見てみましょう。 
 金銀鉱石を産出する鉱山は前述の主要鉱山のほか、賀茂郡下河津村、現在河津町の縄地・大松・金山沢・見高鉱山、加茂郡南中村、現在南伊豆町の小松野・一条鉱山、賀茂郡竹麻村、現在南伊豆町の三倉・日ノ出鉱山、賀茂郡宇久須村、旧賀茂村、現在西伊豆町の大久須・宇久須鉱山、賀茂郡稲梓村、現在下田市の落合鉱山、田方郡下狩野村、旧修善寺町、現在伊豆市の大平・縁明鉱山、田方郡上狩野村、旧天城湯ヶ島町、現在伊豆市の豆州・桐山・狩野鉱山、安倍郡大河内村、現在静岡市の金森鉱山、磐田郡山香村、旧佐久間町・龍山村、現在浜松市の大井・旭鉱山などがありました。
 銅鉱石は久根鉱山のほか、磐田郡龍山村、現在浜松市の峰の沢鉱山がありました。同鉱山は日本鉱業会社の直営でしたが、45年の火災により一時休山しました。
 硫化鉱石は硫黄と銀、銅、鉄などの化合物で、河津鉱山、久根鉱山などで採掘されていました。
 鉄鉱石生産はわずかですが、志太郡朝比奈村、旧岡部町、現在藤枝市の青羽根鉱山が知られ、マンガン鉱石は賀茂郡稲生沢(いのうざわ)村、現在下田市の白浜鉱山、浜名郡知波田(ちばた)村、現在湖西市の大知波鉱山などの産出です。
 昭和恐慌後から日中戦争期にかけての銅鉱・硫化鉱・マンガン鉱生産は停滞気味で推移し、太平洋戦争下での諸鉱石生産量は、銅鉱・硫化鉱などで増大傾向となったと概括できます。しかし、増産が叫ばれ、強制連行朝鮮人・中国人労務者による労働力補充などが行われたにもかかわらず、その成果は顕著とは言えません。
 県内に精錬所を持たなかった銅は、鉱石のまま他に移出されましたが、伊豆地方の金鉱石、銀鉱石は精錬されていました。金・銀とも34年を画期として生産量を拡大し戦時期を迎えますが、その後停滞し、戦争末期の43年には著減していますので、増産はできなかったことを示しているのでしょう。
 榛原郡相良油田の産油量は、明治後期をピークとして以後は著減しています。30年代以降戦時期の生産量は1907年607キログラムの1/10にも満たず、個人経営で細々と継続しているといった状態でした。1936年『静岡県統計書』によると、榛原郡菅山(すげやま)村、旧相良町、現在牧之原市の2か所の油田の1つの年間採油量は215ヘクトリットル(1ヘクトリットルは100リットル)、鉱夫人員2人、もう1つは91ヘクトリットル、鉱夫人員は1人に過ぎませんでした。
 次回は、「中小商工業と金融機関の再編成」というテーマでお話しようと思います。

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