見出し画像

「概説 静岡県史」第125回:「大政翼賛会県支部の結成と地域末端組織の整備」

 政党の問題は、昔も今もいろいろ難しいですね。大政翼賛会の成立過程をを見ると、それを実感します。自民党の派閥問題も、自民党はいろいろな考えを持つ集団の連合体なわけで、55年体制時の派閥はそれによって自民党がいろいろな人々を引き付けるのに役立っていたわけですが(それゆえに政権政党として存在意味があったわけですが)、小選挙区体制下の派閥は、いくつかの親分子分グループがあるだけで、存在意味があるようには思えませんので、解消しても政治には影響がないと思います。
 それでは「概説 静岡県史」第125回のテキストを掲載します。

第125回:「大政翼賛会県支部の結成と地域末端組織の整備」


 今回は、「大政翼賛会県支部の結成と地域末端組織の整備」というテーマでお話します。
 1940年(昭和15年)9月に入ると、中央での新体制準備協議と並行して、県内の庵原・賀茂・富士地域の郡単位の新体制準備懇談会が始まっています。参加者は、町村長、団体代表で、政党排斥論が強いことを考えると旧政党関係は参加していないと思われます。会議をリードしたのは県特高課-警察署ラインであり、内務官僚サイドからの新体制準備工作だったと思われます。翼賛会結成を前後して県特高課および時局課は課長を先頭に県内各地に出向き、地域指導を実施します。
 新体制の性格をめぐって、新体制の中核に強力な政治力を求める近衛グループと、一国一党論からそれを支持する軍部や革新右翼勢力が一方に位置し、他方に一国一党や強力な政治力の結集は天皇帰一の天皇制支配原理に反するとして、これを批判する観念右翼や精動運動を指導してきた内務官僚が対立しました。このため新体制の性格は容易に決まらず、結果として10月12日に成立した大政翼賛会は、一国一党的ですが、強力な政治力をそがれた妥協の産物となりました。地方組織に関しても、県組織支部長の知事兼任を主張する内務省と、民間人の起用を主張する革新右翼が対立したため、支部長は当分空席となりました。
 こうして大政翼賛会は、宣言も綱領も発表できないまま発足しました。13日には県内各市町村で一斉に大政翼賛会発足、三国同盟結盟祝賀の大会が開催され、主要都市では1万人規模の動員となりました。内容が判然としない祝賀への大衆動員は、11月の紀元二六〇〇年式典まで続きました。なお、近衛新体制の演出に一役買った太田正孝は翼賛会政策局長に就任しています。
11月19日、小浜八弥(おばま はちや)県知事は翼賛会県支部運営の中心となる常務委員10人の指名を発表しました。多くは予想もしなかった人事で、県会議員からは加藤七郎、大村直、永井保が任命されます。加藤と大村は県会全員協議会世話人であり、永井は後に県翼賛壮年団理事になる人物ですが、20日付け「静岡民友新聞」では、「山口忠五郎、山田順策、金子彦太郎、三上陽三等々の顔役も或は我と我が身をつねって見たかも知れない」と論評しています。常務委員会は「政治力の希薄」が心配されましたが、現実には常務委員会に出席していた県知事、県総務部長、時局課員らが委員会をリードしていたと思われます。常務委員会はこの後、事務局、参与、顧問などの人選を行い、事務局庶務部長には鈴木信雄が就任しました。鈴木は、政友会少壮派として行動しつつも、山口支部長と近い関係にあり、新体制運動を推進した人物ではありません。これ以後、県知事を中心に常務委員10人に、県総務部長と鈴木庶務部長を加えた理事会が支部の決定機関となります。森口、山田、加藤弘造ら革新派はいずれも外され、顧問や参与の地位に甘んじなければなりませんでした。山雨楼主人(村本喜代作)の『鈴木信雄君を語る』によると、小浜知事は県政や大政翼賛会支部への軍部の関与を嫌っていたとされており、これが事実だとすると翼賛会人事における鈴木の起用、親軍的革新派の忌避は、こうした知事の政治姿勢の反映で、革新派、特に衆議院議員である山田と対抗できる政治力量を持つ人物を支部の中枢に据える必要がありました。闘将として知られた山田は「和に乏しい」という理由で忌避されたと言われ、山田はこの翼賛会人事に強く異を唱えました。
 12月12日、発会式を挙げた翼賛会県支部は、行政ルートの町内会・部落会の整備と並行して、郡市町村組織の整備を急ぎました。都市では10人、町村では5人ずつの理事が選出され、事務局が置かれました。支部長は郡では郡町村長会長、市町村では市町村長が就任しました。さらに41年1月末から2月初旬にかけて、翼賛会下部組織の発会式が開催されます。下部組織役員の人選にあたって、在郷軍人会県支部長は在郷軍人の推進への尽力あるいは在郷軍人分会長の意見を集めた上での人選を、各町村長に求めました。町村の在郷軍人会分会は、隣組長の選任についても「本分会員中より適当なるものを選任」するよう、町村内区長に求めています。実際県内の事例でも、町村の理事は在郷軍人会、警防団関係者が多いようです。行政・警察ルートで下部組織の指導を進める内務省に対し、下部組織の結成、運営をめぐって軍部が激しく対抗していたわけです。
 大政翼賛会には協力会議という制度があり、全国レベルでは中央協力会議、地方では県、郡、市町村にそれぞれ協力会議が置かれました。協力会議は上級から提案された議案を実践的立場に立って具体化する議論の場で、下級の問題を上部に提案する下意上通の役割も果たしました。市町村の協力会議は市町村の常会が代替し、町村の場合は上通事項を郡協力会議へ提案しました。郡協力会議の定員は町村代表1人に郡内役職、有識者を加えた程度であり、全県で定員は428人でした。郡協力会議は、郡内実行事項と上通事項に分け、県協力会議への提案としました。県協力会議は定員40人で、県への提案と中央への上通事項が整理され、代表2人が中央協力会議へ出席しました。協力会議の狙いは、下意上達、上意下達という国策実践、国策形成への国民の不断の参加を制度的に保証し、国民の自発的な国策協力を組織するところにありました。選挙-議会制度とは異なる地域代表・職能代表的な国民の政治参加の方式ですが、県も郡協力会議も上からの任命メンバーで構成されました。議案採決にあたっては、対立を排除する建前から、多数決ではなく議長の統裁という指導者原理が採用されました。
 この協力会議には準備段階から議会、旧政党勢力が強く反発しました。何故ならば、自己の職能の侵害だったからであり、議会そのものが翼賛化している中で、議会不要論が高まる恐れがあったからです。静岡県の協力会議でも、協力会議と県会・市町村会の関係が取り上げられ、各種議会の協力会議化による一元化が提案されました。しかし、県内各郡市町村で1941年(昭和16年)4月に開催された第一回地方協力会議では、様々な上通意見が議論されており、県民が翼賛会や協力会議に一定の期待を持っていたこともうかがえます。
 5月の県協力会議では2日間にわたって80余の議案が審議され、翼賛会の整備と経済問題に議論が集中しました。隣保組織の整備のように、かつてない民衆生活の徹底的な画一的支配とともに、自発的・積極的国策協力、挙国一致を引き出す協力会議のような仕掛けが、この時期の国民支配の新しい特徴です。しかし、この年の9月の第二回地方協力会議では、地方協力会議が県政・国政への意見表明の場となることを恐れて、「第一回協力会議の実情に鑑み、特に郡内実行に移し得る具体的建設的意見を極力提出せしむること」という下意上通の規制が行われました。
 翼賛会結成後も中央では翼賛会の性格をめぐる抗争が続き、40年末から41年4月までに強力な国民の政治力結集路線は挫折しました。支部長問題は県知事兼任で決着し、翼賛会は内務省主導の行政補助機関的性格に傾き、政治力結集に期待をかけていた軍部や革新右翼は反発を強めました。翼賛運動から排斥された議会勢力の不満も強まっていました。このような翼賛会内の対立と変貌は県内にも影響を与え、翼賛会の下意上達機関として組織され始めた協力会議は、旧政党勢力を代表する山口忠五郎が、41年2月に県協力会議議長に就任しました。山口は議長として、県代表2人の1人として中央協力会議へも派遣されています。これは、小浜知事-鈴木庶務部長ラインの指導と見られ、翼賛会から革新派が後退する中で現れた人事です。これに対し、県会を足場に県政の現状維持的姿勢を批判する森口、加藤らの行動も活発化し、特に深刻化しつつあった食糧対策、増産をめぐって県当局と激しく対立しました。また一方では、県政全般にわたる官僚主導の強まりに県会議員たちの不満も強まりましたが、官僚独占を批判する現役政治家はいませんでした。
 次回は、「隣保組織の整備と革新派の再結集」というテーマでお話しようと思います。  

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?