見出し画像

「概説 静岡県史」第129回:「議会の無力化と翼賛会、翼壮」

 今回の話ではないですが、今の政治って「建設的」ではなく、その存在意義を疑いたくなる状況です。自民党のパー券問題があれだけいろいろ出てきたのに、何の責任も取らず、また文科大臣が「覚えていません」を繰り返すだけで、そのままでいられるのは、小選挙区制の、その地域からたった1人だけ選ばれるというシステムを悪用した開き直りであり、小選挙区制のデメリットだと思いますし、選ばれるために政治に金をかけるので、この問題を助長している制度なのではないかと思います。もちろんこのままでいいはずはないのですが、現役議員から、現行の選挙制度をは改革が必要だという意見は出てこないはずですから、何とかしないといけない問題です。
 それでは「概説 静岡県史」第129回のテキストを掲載します。

第129回:「議会の無力化と翼賛会、翼壮」


 今回は、「議会の無力化と翼賛会、翼壮」というテーマでお話します。
 戦力増強が至上命題となると、「建設的」と見なされない議論は実践の妨げとして排撃されていきましたが、その最たるものが県会、市町村会でした。1942年(昭和17年)11月の通常県会に先立ち県当局は、本来は1か月のところ、県会会期二週間説を主張しました。これに対して県会議員から「この分でゆけば来年の県会は一週間でよい。再来年の県会は或はゼロになるかも知れぬ」という、皮肉を込めた批判も飛び出しましたが、結局23日間に減り、翌43年通常県会の審議期間はわずか10日間となりました。10日間に短縮された県会では、「予算が簡略に過ぎるので、内容を知るに苦しむ」という県会議員の苦言に見えるように、県会の最も重要な仕事である予算審議権ですらも失った状態となりました。県会の無力化は、43年秋に実施されるはずであった県会議員選挙が、「戦力増強に直接関係ない行事は公私ともにこれを少なくすることを考えるべき」であり、食糧増産などの重大な秋に「国民が選挙のために時間と労力を持ちうることは適当でない」という理由で延期されたことに、最もよく表れています。
 県会の無力化が進む42年通常県会から1年間は、鈴木信雄が県会議長を務めています。鈴木はこの時期も県政の有力者であり続けましたが、それは当時の翼賛運動と距離を置き始めつつ戦争継続形態を支持する鈴木の政治姿勢への評価であり、「国民の生活確保の問題を考えることが、政治を考えるものの当然考えねばならないことである」という正論を、この時期に展開し得た政治的なバランス感覚への評価でもあったと思われます。戦時下の県政界は、鈴木のような政治家の排斥までは進みませんでしたが、鈴木のような政治意識を持った人物まで戦争政策への協力を惜しまなかった柔らかな政治体制が維持されていたところに、翼賛運動が空洞化しつつも、戦時体制が簡単に内側から崩れなかった秘策でもあったように思われます。
 1942年(昭和17年)10月、翼賛会機構改革の一環として、翼賛会県支部に事務局長が設置されました。町内会・部落会を傘下に置いた関係で事務局体制が強化されたのです。庶務・組織部長を兼任した永井保が退き、片平七太郎が新たに設置された実践部長に就任しました。
 次いで43年4月、翼賛会県支部と県翼壮の役員人事がほぼ同時期に行われました。理事制を廃止し、常務委員に統一したことから、翼賛会常務委員は19人が任命されましたが、注目されるのは柴山重一、加藤弘造、森口淳三、松永五一郎、片平七太郎という翼壮人脈、および県内政部長、警察部長などの県の官僚4人が入ったことです。また、柴山は県翼壮団長、加藤・森口・松永・片平は13人いる県翼壮総務に任命されました。この5人は翼壮各種委員会の主催者であり、県翼壮の実質的中心人物です。このように翼賛会の精動化を進めつつ、翼賛運動の指導権を握ってきた官僚層と精動化に反対する翼壮関係者とが、翼賛会常務委員会で張り合ったわけです。衆議院議員となった加藤、森口のように衆議院議員資格で翼賛会常務委員となったのは、加藤と森口の2人だけです。
 この時期の県翼壮は、実践運動計画だけでなく、独自の勢力拡張策を展開しました。団の人事では、県当局の「あてがい扶持的人事」を排斥し、町村長の町村翼壮団長就任も避けるなど、行政と一線を画す方針を強調しました。また、43年初めの町内会・部落会・隣組役員改選にあたっては、優秀人材の登用運動という名目で翼賛会下部組織役員への進出を図りました。
 政治的には43年5月、柴山団長の指揮のもと、熱海市長に熱海市会議員選挙で推薦候補選考委員会委員長を務めた黒崎中将を翼壮推薦候補として推すという、公然たる政治活動を展開しました。翼壮関係の衆議院議員は、加藤・森口が主唱する翼賛議員懇談会など、全国的にも翼壮議員のまとまりを作りつつありましたが、県内では県翼壮政治部会として、加藤・森口、そして太田正孝の協力も得て、対議会活動を展開しました。43年1月末、森口は議員100余人の賛同を得て、食糧増産について、徹底抗戦の立場に立つ食糧対策で、戦時体制への消極分子はすべて「現状維持的」であり、そのような存在を許さない、という激烈な内容の意見書を農林省に提出しています。
 しかしこのような急進的な活動、政治進出は、各地で官僚層や議会勢力との摩擦を招き、同じく翼壮への不信を強めていた政府によって、43年10月から11月にかけて、翼壮中央の主流派幹部の退陣という弾圧が実施されることになります。県内でも、県翼壮団長を翼賛会県支部長の下に置く機構改革が実施され、翼壮は翼賛会の実践団体として翼賛会内に吸収されました。この後、翼壮の活動力は急速に低下します。県内政治勢力のバランスも、再び変動したものと思われます。
 一方、既に推進員制度も廃止し、自発性喚起の手段をまったく失った翼賛運動は、県行政と表裏一体化し、行政補助組織としての性格をますます強めていきました。
 次回は、「太平洋戦争下の地方行政と静岡大火、東南海地震」というテーマでお話しようと思います。 

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?