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「概説 静岡県史」第136回:「農業労働力統制と農地統制」

 新年度になり、明日あたりに始業式・入学式のところが多いのでしょうか。個人的に昨年度とは違い、かなり業務量が増えることになり、4月1日からやたらと忙しく、早くもふらふらしています。この調子だと、また「概説 静岡県史」を書く時間もなくなり、連休前にネタ切れになる危険がありますが、それも仕方がないかなぁと思っています。
 それでは「概説 静岡県史」第136回のテキストを掲載します。

第136回:「農業労働力統制と農地統制」


 今回は、「農業労働力統制と農地統制」というテーマでお話します。
 1930年代に入ると、市場統制を軸とした農業統制化の動きが強まります。1910年(明治43年)から40年(昭和15年)にかけての農産物平均価格は、米は19年(大正8年)をピークに多少の変動を見せながら、30年に向かって低落する傾向でした。これに対し、大麦、大根、ミカン、マユの価格は、昭和恐慌までは米と同じように推移しましたが、それ以後の回復はかなり時間がかかりました。中でもマユ価は激しく低落しました。恐慌以前でも20年代後半期には23年のピーク時の価格の半分近くまで下落、恐慌後はさらに下回り、それ以前の水準は回復できませんでした。このような農産物価格の下落は農家経済にとって痛手となり、農業側からの市場統制の必要性がより強められることになったのです。
 37年7月に日中戦争が始まると、農業利害を保護するためだけでなく、国家的利害を貫徹させるために、農業生産を戦争に動員する政策が取られるようになります。第一に戦争遂行の基礎条件として食糧増産を実現し、食糧の国内自給体制を確立すること、第二に人的資源を戦争遂行のために確保していくことです。このような政策の根幹には農業労働力統制、食糧管理統制、農業資材統制、農地統制、農業団体統制が置かれ、農業に対するあらゆる分野に大きく統制の網が掛けられることになりました。
 日中戦争が始まると、早くも8月に「古来より美風たる隣保共助の精神を振起活用」して、応召農家の「生活安定」を図るように指示した通牒が出されます。これを受けて県総務部が日中戦争の経済的影響に対する対策を講じるために、市町村に対して「支那事変の農業及工業に及ぼしたる影響に関する調査」を依頼しました。
 調査の回答の一例として田方郡小室村、現在伊東市の回答を見ると、小室村で応召した農業関係者は40人で、このうち専業農家16戸、漁業を副業とする兼業農家24戸です。40人のうち16人が経営主で、9人の長男を含めると、60%以上が基幹労働力を奪われたことになります。その結果、40戸のうち「業務に支障を生じたる者」が16戸、「救護を要する家族」が6戸となり、半数以上が出征に伴うハンディを負うことになりました。
 静岡県農会では時局農村対策協議会を開催して、このような労働力不足に対する方針を、次のように決議しました。
 ①労働力不足に対応し、部落小組合を主体とする共同作業ならびに設備農具などの共同利用を奨励すること、②農家婦女子に対し農業に関する技能を普及し、積極的に農業経営に参画させる方法を講じること、③耕馬の不足を来した場合、急速に補充を行うとともに、畜力の融通を図ること。
 しかし、出征ばかりではなく、軍需工場などへ労働力が流出するようになり、事態はさらに深刻化しました。1920年(大正9年)から40年までの県内の就業者の推移を見ると、20年~30年にかけて総数約6万3000人、40年にかけて約9万600人が増加しました。この間、農業部門から製造業部門へと就業者がシフトして、30年から40年の間に就業構造が大きく変化しています。特に農業部門で男子労働力が減少して、女子労働力に依存する傾向が強くなりました。こうした労働力の流出に対して、農会を通じて農業労働力の移動が統制されることになりました。その根拠となったのが40年に改正された「農会法」、41年の「農業生産統制令」で、特に「農業生産統制令」により、農業をやめようとする者は農会に申告し、その承認を得ることが義務付けられ、離農者に対する統制が図られるようになりました。この「農業生産統制令」は労働力の移動に対する統制だけでなく、農業全般の統制を企図するものでした。つまり、農業生産確保のために、市町村農会がその地区内で生産すべき農産物の種類数量、またその作付面積、農業労働力、農機具などに関して生産計画を樹立し、必要に応じて各農家に対して生産割当を指示することを規定していました。ただし、農会による統制は徴用・召集には及ばないとされていたので、必ずしも効果が発揮されたわけではありません。そのため、44年に「農業生産統制令」を改正して「戦時農業要員の指定」を行いました。同要員に登録されたものは「国民徴用より之を除外する」ことが明示されました。
 しかし戦線拡大に伴い、このような農業労働力確保のための統制も矛盾せざるを得ませんでした。そのため共同作業の奨励や農機具の導入などの対策が図られました。『静岡県農地制度改革誌』で33年と42年の各種農機具の普及状況を確認すると、製粉機が33年の805台が42年には1305台となり増加率277.6%、発動機が33年の3913台が42年には8529台で増加率118.0%であり、特に脱穀機は33年に580台ですが、42年には9194台で増加率1485.2%となりました。また、学徒動員による勤労奉仕とともに、工場労働者の勤労奉仕による農業労働力不足を補うことも行われるようになりました。例えば、41年10月に駿東郡北郷村、現在小山町に富士瓦斯紡績小山工場の労働者200人が派遣されたのはその一例です。
 戦時経済期の農地統制は、1938年(昭和13年)4月2日公布、8月1日施行の「農地調整法」により始まります。24年(大正13年)の「小作調停法」が施行されて以来、不十分とはいえ、地主の土地所有権に一定の制限が加えられるようになりましたが、「農地調整法」はさらにそれを強化する法的役割を果たすことになりました。
 主要な点として、まず第4条で、自作農創設について道府県・市町村等の団体が地主に対して土地の開放を求めることができるようになりました。第9条では、小作契約は地主が一方的に解除できず、小作権を事実上物件化しました。第10条で小作調停に関して、小作官による調停申し立てができるようになりました。この調停申し立てには「小作関係の争議に付公益上必要ありと認むるとき」という限定が付けられており、小作争議対策的性格が強いと言えます。
 また「農地調整法」の精神は「農地調整法要旨」によると、耕作者の安定に重点が置かれていたことは間違いありません。「耕作する事実」にウエイトを掛けることにより「所有権の絶対性」に一定の縛りを掛け、食糧増産の課題を実現しようとする意図がありました。このような農地をめぐる統制は、41年1月30日公布の「臨時農地価格統制令」、2月1日公布の「臨時農地等管理令」により、さらに強化されることになりました。
 次回は、「小作料統制と農業団体統制」というテーマでお話しようと思います。

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