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#16 「究極のFIRE?」 宇喜多秀家のジェットコースター人生

 皆さん歴活してますか?
ご無沙汰してます。歴史探偵Qです。

 今回調査するのは「宇喜多秀家」です。
皆さんはどんなイメージをお持ちですか?
私の調査する前のイメージでは…
温室育ちのとっつぁん坊や
と思っていましたが…
さすが戦国時代!
そんな緩い人生は歩ませてはくれません。
宇喜多秀家…なかなかのジェットコースターを
歩んでいます。
また、題名でも「究極のFIRE?」と表したように
宇喜多秀家ある意味FIREしています。

 まず『FIRE』とは、火の事ではなく
現代社会において経済的の自立、早期退職を
意味します。簡単に言いますと会社で
働かなくても投資などの運用益で
生活している人のことです。
今、TwitterやInstagramの投稿を見ても
「FIREするには?」や「40代でFIREするには」
と言ったような投稿が多く見られます。
現代社会の流行りを約400年前に
秀家も無理矢理な形ですがFIREしていますが…
これが、意外な結果をもたらします。

 それらを宇喜多秀家の人生と合わせて
調査報告させていただきます!

<1>宇喜多秀家の絶頂期

 宇喜多秀家は1572年、宇喜多直家の
次男として生まれます。
父である、「宇喜多直家」は『悪人』と呼ばれ
智謀の限りを使い、戦国時代を生きている
武将でした。
秀家が生まれた時も秀吉率いる織田軍が
中国攻めの最中で、宇喜多直家も
生き残りをかけて毛利側から織田側へ
寝返り中国攻めに参加していました。

 しかし、1581年に父:直家が幼い秀家を
残して亡くなってしまいます…
 そこで秀家の後見役を担ったのが
羽柴秀吉」だったのです。
秀吉の協力もあり10歳で宇喜多家
当主となりました。

 また、秀吉の秀家に対する目の掛け方は
尋常ではなく…もう異常です!
秀吉の出世街道の
「本能寺の変」→「山﨑の戦い」
→「賤ヶ岳の戦い」を経て気づいてみると、
秀家:57万石の大大名となっていました。
わずか11歳です。
 さらに、秀吉から「秀」の字をもらい元服し
秀家と名乗り、秀吉の養女:豪姫
(前田利家の娘)を正室に迎えました。
※前田家と宇喜多家のつながりは長く、
なんと明治まで続きます。

 まさしく大企業:豊臣カンパニーに婿殿として
役員クラスとなりました。
秀吉には跡取りがまだいなかったので、
力のある武将が身内に欲しかったのだと
考えられます。

 その後、秀家は順調に武功を上げていきます。
「小牧・長久手」、「紀州征伐」、「九州征伐」
「小田原征伐」、「朝鮮出兵」と豊臣秀吉の
天下統一には常に秀家の姿がありました。

 着実の成果を残した秀家に対し、
秀吉は「五大老」という役職に任じます。
これは大抜擢です!なぜなら周りの大老達は
若くて40代、上は60代の中に27歳の若さで
選ばれたからです。
 歴戦の猛者達の中に放り込まれたと考えたら
少し可哀想な気もしますが、役職の面でいえば
宇喜多秀家の人生でピークを迎えていました。

<2>順風満帆な人生にも影が…

 人生のピークを迎え、
大企業:豊臣カンパニーで創業者に可愛がれ、「五大老」という重要なポストに就かせてもらい勝ち組人生まっしぐらかと思いましたが…

 1598年、秀家の後ろ盾「豊臣秀吉」が
亡くなります…
すると、今までの順調な人生が嘘のような
事件が起きます。
嘘のような事件…「宇喜多騒動」が起こります。

■「宇喜多騒動」とは…

 秀家に対して不満を持った重臣達が
大坂の屋敷に立て籠ってしまった事件です。

秀家に対しての不満として挙げられているのが
①:財政難(朝鮮出兵、岡山城の修繕費)に
  対して秀家が何も対策をうたない。
②:秀家がとにかく悪手を連発する
 ・領内全土を急にキリシタン化へ
 ・新参者の家臣を厚遇
 ・自分が可愛がっていた家臣を庇う為に
  重臣を暗殺しようとする。

 など、秀家が幼い時から仕えていた重臣に
とってみれば面白くありませんし、
まさか殺されかけるとは…
そりゃ立て籠りますよね…

 ただ、20代後半になり成長し着実に力をつけてきた自分の力を見せたい秀家が口うるさい
重臣達よりも自分の言うことをなんでも聞き、
持ち上げてくれる新たな家臣の方を可愛がる
と言うのもわからなくもないですよね…
人間らしいというか…
なんでもバランスが大事ですよね。

 そして、立て籠りに対して豊臣政権の文官
大谷吉継」が出動するものの解決せず、
最終的には大物「徳川家康」が登場し家康が
仲介役として立て籠りが解決しました。

 しかし、立て籠りをした代償として重臣達は
秀家の元を去り、宇喜多家は経験豊富な
人材を失い、深刻な人材不足となり勢いを
なくしていきます。

 この事件には続きがあり、秀家のもとを去った重臣達の多くはなんと徳川家康の家臣となって
いたのです。この事から、秀家は家康に対して
不信感を抱くようになります。

 そして運命の「関ヶ原の戦い」が起こります。
豊臣秀吉への恩義と家康への不信感もあり、
秀家は西軍の主力として参加します。

 戦いの結果は皆さんも知っている通り
西軍は「敗北」します。
秀家は戦場から落ち延び、
宇喜多家は改易(領地没収)。
落ち延びた秀家は様々な場所を転々とし
薩摩の島津家へ身を寄せます。

 しかし、家康は西軍参加武将の
捜索を諦めません。
執念深い家康の島津家への圧力は年々強くなり…
耐えきれなくなった島津家は3年後に秀家を家康に
引き渡してしまいます。
秀家は、加賀前田家(妻の実家)と島津家の
助命嘆願によって死罪は免れたものの
八丈島」へ流罪になりました。

<3>無念の流罪…八丈島での生活

 流罪となった宇喜多秀家が向かった先は
八丈島」でした。
当時の「八丈島」は鳥も通わぬ絶海の孤島
だったそうです。
ちなみに江戸時代で流罪として八丈島へ流された罪人第一号が「宇喜多秀家」だったそうです。

 話は寄り道しましたが、八丈島での
秀家の生活は困窮していたそうです。
特に「食料面」に苦しんでいたそうです。
それはなぜか?
当時の八丈島では稲作が出来なかった為、
雑穀類(ヒエ・アワ)が主食となり
あとは自分で漁に出て海で獲れる魚介類、
山で自生してる山菜などを食べていた為
確実に食糧の確保が出来ていなかったのが
大きな問題だったと言われています。

 ただ、宇喜多秀家の場合他の罪人達とは
大きな違いがありました。

 妻の豪姫や妻の実家の前田家、旧家臣達からの
仕送りがあったので他の罪人達に比べて余裕が
あったとも言われています。
また、元57万石の大名ですので八丈島の代官や
島民からも一目置かれていたそうです。

<4>「FIRE」生活はストレスフリー?

 八丈島へ流されて10数年後…
家康が亡くなります。
これにより秀家の流罪の罪が許されます。
妻の実家の前田家から
「領地を分けるので大名復帰しませんか?」
と提案されますが秀家はこの提案を断ります。
 その理由は今も謎のままです。

 その後も秀家は八丈島で50年ほど過ごし
享年84歳でこの世去ります。
その頃時代は徳川家康→秀忠→家光を過ぎて
4代将軍家綱となっていました。

 最後にまとめとして題名に「FIRE」と
銘打って宇喜多秀家を紹介してきましたが
宇喜多秀家の人生は「現代人の参考」
なるのではないかと思います。
 現代人の多くの方が様々な形のストレスに
やられていると思います。

 秀家も大名時代、豊臣秀吉に可愛がれては
いましたが周りの若い武将からの嫉妬。
順調に出世することへの妬み・嫉み。
また、五大老に就任したのは良いものの
周りは歴戦の猛者達。
 一筋縄では行かないタヌキ親父達との
「腹の探り合い」というカロリー重め仕事をして…

 疲弊した状態で自分の家に帰っても
古くからの重臣には「先代の時は…」とネチネチ
小言を言われることがあり…
だんだん重臣達と仲が悪くなり自分に対して
グダグダ言わない人と付き合いたくなる…など
秀家も人間関係に悩んでいたと思います。
(勝手な妄想も含みます)

 現代人に似た状況に置かれた秀家は
自ら望んだわけではないですが全てを捨てて
自然の中で生活することになりました…

 今流行りのキャンプやサウナ、チルブームも
全てを捨ててまっさらな精神状態の自分に
なりたいというものの表れかもしれません。

 秀家も大名というしがらみを捨て、
確かに食べる物には苦労したかもしれませんが
その他にはストレスはあまりありません。
晴耕雨読の日々」を過ごしていたと
自分は思います。まさしく究極の「FIRE」です。

 その証拠に若かったこともありますが、
関ヶ原の戦いに参加した武将の中で誰よりも
長生きしました。様々なメディアで
最強武将ランキング」と言うものが
ありますが、長生きしたという面では
ある意味最強なのかもしれません。

 やはりストレスフリーな生活は心身を
健康にするのかもしれません。
秀家羨ましいかも…」と思った自分がいます。
ここまで読んでくださった皆さんは秀家の人生
歩みたいですか?


調査報告完了
次回もよろしくお願いします。

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