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#7 田沼意次は賄賂政治家?商業資本の革命家?

 皆さん歴活してますか?歴史探偵Qです!
今回も歴史調査報告をさせて頂きます!

 今回は老中:田沼意次をご紹介させて頂きます。
皆さんは「老中:田沼意次」と聞いて…
どんなイメージ?をお持ちでしょうか?

 「賄賂政治家」、「賄賂政治の権化」などなど
あまり良いイメージを持っている方は少ない…
もちろんそれも事実だと思います。

今回は色々諸説ありますが田沼意次の違う顔を
ご紹介できれば歴史探偵として嬉しいです。

目次
1:田沼意次って誰?
2:田沼意次のイメージ
3:田沼意次の功績
4:なぜ悪いイメージがついたのか?
5:最後に。

1、田沼意次って誰?

 江戸時代中期の老中であり…
最初は9代将軍家重の取り立てにより
小姓から大名となります。
1772年、10代将軍家治の側用人から
老中となり幕政の実験を握りました。

・田沼意次の成り上がり伝説

 田沼意次は最初600石程度の旗本でした。
現在の貨幣価値で考えると諸説ありますが…
田沼意次の年収は旗本時代約500万円でした。
一見、稼いでるな〜と思いますが…
家族&奉公人の生活費、馬の維持費など
出費が多く…生活は厳しく…借金をしている
旗本も多かったとのこと。

 そこから、9代将軍:家重に重用され
トントン拍子に出世し、なんと39歳の時
美濃国郡上藩:1万石の大名に取立てられます。
さらに破竹の勢いは留まることを知らず、
10代将軍:家治からも重用され…
現在の静岡県にあった遠江相良藩2万石など
わずか10年で5万7千石の大名に昇進。
成り上がりはまだまだ続き…
将軍の側用人(側近で将軍と老中との連絡係)
から老中まで登り詰めました。

 今で言うと、社長秘書から取締役まで出世
 したサラリーマンと言えるでしょう。
 相当頑張ったのだと思いますが…

 いつの時代も「出る杭は打たれる
 この後、説明しますが様々な政策を実行…
するも成功と失敗を繰り返していた時に
最大の理解者であった将軍:家治が死ぬと
田沼意次は失脚…ここから下り坂…
息子刺殺される→失脚→蟄居→孫が後継ぐ
→1万石へ減らされる→陸奥に転封
→失脚から2年後死去(可哀想)

 田沼意次の波乱万丈な人生だったことは
わかっていただけたと思います。

2、田沼意次のイメージ

 はじめに書いた、田沼意次は「賄賂政治家
と言うイメージが強いと思います。
現に教科書にも後の老中:松平定信との比較で
「白河の清きに魚も棲みかねて
 もとの濁りの田沼恋しき」

と言う狂歌も有名な位黒いイメージが世間的に
ありますよね…それは否定しませんが…

 次の章では、意次の功績を紹介します。

3、田沼意次の功績は?

 上記の内容では田沼は何もやっていない様な
書き方でしたが…意外とやってるんです。笑

<江戸時代三大改革と田沼政治の違い>

・享保:徳川吉宗→「質素倹約」
・田沼政治→「商業を成長させ、税を徴収
・寛政:松平定信→「享保の改革を参考、強化」
・天保:水野忠邦→「享保、寛政を目標、推進」
と簡単に書きましたが…

 享保の改革では「定免法」により実年貢率が
上り、幕府の懐具合は少し良くなりましたが
年貢を増やすにも限界があります…さらには
米の相場の調整に苦しみ、百姓一揆や江戸での
打ちこわしが初めて起こった。

 田沼政治では、打って変わって商人を積極的に
利用して豊かな商人から税を取ろうと考えた政策
株仲間を積極的に公認し、専売制を認め商人の
行動を活発的にさせた。(年貢以外の収益の向上

 寛政の改革では、享保の改革を目標に
「復古的理想主義」を掲げ田沼政治で起こった
幕府役人の賄賂などを乱れを正し、強い幕府を
取り戻そうと改革を行なったが締め付けが強く
不満が爆発し改革は失敗。

 天保の改革では享保、寛政の改革を目標にし
質素倹約、農村の荒廃の改善等色々動いたが
まず、享保・寛政の改革が失敗しているの
だからそれを目標としている天保の改革は
失敗するのが目に見えていますよね…

 学校の授業では暗記するのが大変だったので
流れを理解していなかったのですが…
流れを理解すると…松平定信と水野忠邦は
もう少しうまくできなかったのかと
思ってしまいます。

 さて、話は主役の田沼意次に戻り
田沼政治は、商人の利用だけではありません。

・新田開発で年貢収入の向上を目指す
 →印旛沼、手賀沼の干拓工事
・蝦夷地へ調査団の派遣
 →諸説ありますが…
  蝦夷地全体の石高は
  「583万石」もあると言われ、
  幕府が持っていた石高は「400万石」と
  言われているので非常に魅力的である。
・貿易の決済に「俵物」を使用
 →当時の中国との貿易の際、輸入超過であり
  多額の金銀が流失していた。
  そこで田沼は貿易の決済の手段に「銅」や
  輸出海産物(フカヒレ、干鮑、なまこ)
  を俵に詰め決済に使用しました。
・全国の貨幣流通を円滑にした
 →当時の東日本では金を、西日本では銀を
  通貨として使っておりお金がバラバラだと
  効率が悪く、価値も一定ではなかった。
  そこで「南鐐二朱銀」と言う貨幣を作り
  経済圏を統一し、全国の商人の活動を
  活発化させた。

 以上、代表的な田沼意次の改革を紹介
しましたが…やっている事は非常に
理にかなっており現代の政治家よりも
仕事をしている感じがありますが…笑
 
 ではなぜ?
悪いイメージがついたのでしょうか?
次章で説明させていただきます。

4、なぜ悪いイメージがついた?

 上記では田沼意次の功績を紹介させて
いただきましたが、ここではなぜ
田沼意次は悪いイメージがついたのかを
紹介させていただきます。

 悪いイメージがついた原因を
大きく分けて2つあります。
天災への対応
失脚後の印象操作

①天災への対応

 1600年の後半から1800年代の間は天災や
飢饉に悩まされていました。
田沼政治を行なっている時も「岩木山」
「浅間山」の噴火が起こり火山灰により
日光が遮断され冷夏となり…農作物が壊滅…
天明の大飢饉が起きました。

 幕府も救貧政策を行うも効果がなく…
大凶作にもかかわらず米価が急上昇し飢餓
の歯止めが効かず、不満が溜まっていき…
さらに人命の危機の最中に経済中心で起こる
幕府役人と商人の賄賂政治の横行…
新田開発の失敗(印旛沼の干拓は昭和で完了)
蝦夷地の投資失敗など革新的な改革は結果を
出すことができず、ダブルパンチで庶民の
不満が高まり田沼意次のイメージは悪化したと
考えられます。

②失脚後の印象操作

 田沼意次の政治改革には在任中から
反対の声が多かった…
 もちろん既得権益を守ろうとした人や
賄賂政治を批判する人など様々な人がいたと
思われますが…武士が商人みたいなことをする
のに嫌悪感を出していた人もいるそうです。
 
 田沼意次が嫌われていた証拠として、
10代将軍:家治が亡くなって2日後には老中を
失脚、蟄居、財産没収…いや〜エグいですね。

 また、のちの老中の松平定信が自分の改革を
進めるべく、田沼意次の政治改革を批判し
自分がやることが正しいとマウントをとり
反田沼政治を掲げた為、そのイメージが
現代の田沼意次像を作ってしまったのです。

5、最後に。

 最後に、今回紹介した田沼意次の新たな
イメージ像は明治以降に田沼意次の研究が
進み様々な顔が出てきたと思います。

 新たな一面として「山師」としての一面も
紹介したいと思います。

「山師」とは、様々な投資を行いお金を稼ぐ
人のことであり、現代で言うと…
ベンチャー企業の社長の話を聞き話の内容が
よかったら投資をする、
エンジェル投資家」とも言えます。
 田沼意次は投資家と言う一面があり、
その投資を受けた人物の中には「平賀源内」
もおり、先新的な一面もあった。

以上の様に、田沼意次は現代の経済活動に
近いことをやっていたことが最近の研究に
よってわかってきてます。

 今回の調査では色々諸説あり、地元の
伝承も参考にしていますので正しい歴史とは
言えないかもしれませんが…
歴史はロマン」です。
誰もその時代に生きていないので
色んな説、考えがあって良いと思います。
そこからさらに研究が進み様々な説・考察が
生まれてくることを願います。 

以上
調査報告完了


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