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#11 頼朝と義経の兄弟喧嘩は防げなかったのか?

 皆さん、歴活していますか?歴史探偵Qです。
今回の報告書では「源義経」についてです。
大河ドラマでも源平合戦が終わり…
奥州での義経討伐があり…(ネタバレすいません)
これから鎌倉での醜い身内争いが始まります。

 そこで今回は、「源義経」をおさらいし…
・なぜ、源平合戦の英雄であった義経が
 頼朝と対立し兄弟喧嘩(戦)になったのか…
・義経が助かる方法はないのか?
を参考文献
①:呉座勇一先生 「陰謀の中世史」
②:元木泰雄先生 「源頼朝」
を基に歴史探偵Qの考察も入れながら
ご紹介できたらと思っています。

1、源義経をおさらい

 源義経は、平安時代の武将であり鎌倉幕府
初代将軍の源頼朝の異母弟である。
 源平合戦では諸説あるものの…
数多くの戦果をあげ平氏滅亡に尽力し最大の
功労者であったが、後に頼朝と対立し非業の死を
迎えることなります。

2、対立原因の通説を整理する

 平家を倒す為、頼朝と義経は一致団結して
戦い…親の仇:平家を滅ぼすことが出来ました。
 では、なぜ頼朝と義経は対立し、兄弟喧嘩…
殺し合いをしてしまったのでしょうか?

 対立原因として言われている通説を
紹介していきたいと思います。

■通説として言われている事

①:義経が勝手に官職をもらったから説

 対立した原因の通説としてよく言われるのが
義経が「後白河法皇」から頼朝に無断で、
官職「検非違使」をもらったことにより
頼朝が激怒し、平家追討軍から義経を
外したという話が「吾妻鏡」に
書かれており…そこから仲が悪くなった
という説ですが…これは間違いです。
※「検非違使」とは…簡単に言うと京都の
 治安維持を行う官職です。

 まず、「検非違使」は確かにもらいました。
しかし、これは一ノ谷の戦いで平家を倒した
義経に送られた恩賞であり、就任にあたっては
源頼朝の推薦があったとされています。
ですので無断で官職をもらったというのは
間違いということになります。

 また、頼朝の怒りを買い平家追討軍から
外されたということですが…
これも理由があり、琵琶湖近くの
「伊賀平氏」と「伊勢平氏」の反乱が起き
反乱を鎮圧する為に京都に滞在しなければ
ならなかったという理由があり、
追討軍から離れたということです。

②:「腰越状」は嘘だった?

 壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経の
悲劇のエピソードとして有名な「腰越状
ですが…これも現在では対立の原因では
無かったのではないかと言われています。

 まず、「腰越状」とは壇ノ浦の戦い後に
鎌倉へ帰ろうとした義経ですが…鎌倉の
手前、腰越で足止めさせられ、頼朝との
面会も許され無かったので…
状況を弁明する手紙(腰越状)を頼朝に
送ったのですが、それがさらに怒りを
買ってしまい…面会をゆるされず、
ついに義経は逆切れし京都へ帰ったと
いう話ですが…この話、創作説が有力です。

 その理由として腰越状の2つの
不自然な点が挙げられます。
<1>腰越状の中身
 腰越状の内容に「検非違使」の任命に
ついて頼朝に弁明している内容が
あるのですが…先ほど話した様に
義経の「検非違使」就任に関しては頼朝から
の推薦があってのことですので義経は
何も弁明することはないので不自然です。
<2>義経の処分に関して
 今までの頼朝のやり方は、生かすにしろ
殺すにしろ、何事も鎌倉で済ますというのが
定番でした。 
 しかし、義経に関しては流罪なり謹慎なり
自分の監視下に置かず京都へ帰して
しまいました…これは不自然です。
 
 以上のことから、今まで言われていた通説と
されていた事には腑に落ちないことが多々ある
事がわかってもらえたと思います。
 しかし、内容の信憑性は別にしてこの頃から
頼朝と義経の絆には「亀裂が入っていた
というのは事実だと思われます。

3、なぜ頼朝は義経に不信感を持った?

 通説で言われていたことは信憑性が低く、
別の理由で頼朝は義経に不信感を持ったと
思われますが…
それはどんな理由だったのか?
ご紹介させていただきます。

■頼朝の命令を無視して勝手な行動

 皆さんの人生経験の中で、リーダーや班長、
キャプテン、上級生、先輩、上長、将軍など
スケールに差はあれど人をまとめる仕事に
ついた事が一度はあると思います。
 そこで、「ルール」や「自分の考え」や
皆で決めた事」を守らない人がいたら…
どう思いますか?信用できないですよね!
それが義経だったのです。

 話を頼朝に戻しましょう…
頼朝は平家追討の際に弟である
「範頼・義経軍」に至上命令として
平家滅亡」とともに…
安徳天皇と三種の神器の奪還」を
挙げました。
※三種の神器とは…天皇の正当性を表すもので、
 剣、鏡、勾玉の3種類

 安徳天皇と三種の神器を平家から奪還する
ことで当時の朝廷のトップである「後白河法皇
と政治的交渉で有利に立つ為の切り札として
使うつもりでした。

 そこで頼朝は、平家追討軍に対して
平家との戦いは慎重に進める様、命令しました。
命令を受け、頼朝の本軍である「源範頼」は
平家一門の本拠地、補給地でもあった
中国・九州地区」の制圧を行なっていました。
これは、ジワジワと平家一門を追い詰め、
確実に頼朝の作戦を進めるという意図が
ありましたが…義経は…
戦の天才」がゆえの「勘ピューター」が
働いたのか、兄:頼朝の命令に従わずに
素早い攻撃で平家一門をどんどん制圧し
とうとう滅ぼしてしまいました。

 結果として…至上命令であった
安徳天皇の奪還」に失敗し挙げ句の
果てには「三種の神器」の剣を紛失
してしまうという結果になり、
頼朝が朝廷との交渉で有利になるべく
立てた作戦は失敗に終わりました。

 レベルは違うものの私にも経験があり…
自分が立てた作戦で失敗したら納得できますが
部下が自分で勝手な行動をして失敗して責任は
私が取るということが以前あり、少し頼朝の
気持ちがわかる様な気がしました。笑

 話は少し逸れましたが…
そこから義経は後白河法皇に出仕する
ような行動をとるようになり…
頼朝は義経に不信感を持つようになりました。
しかし、まだ決定的な亀裂とは言えない
状況でした。
では、頼朝と義経の対立が決定的に
なった出来事は何だったのでしょうか?
次章で紹介します。

4、頼朝と義経…決定的な対立理由

 上記で頼朝が義経に不信感を持った
理由を紹介しましたが…ここでは
二人の仲を裂いた決定的な理由と
言われている説をご紹介します。

①:兄の優しさに気づかない義経

 最凶の源頼朝もやはり「兄弟愛」が
あり、義経と仲直りしようと歩み寄りを
見せます。
 1185年に義経は「伊予守」という
名誉ある位に就任しました。
※伊予守…伊予国(現在の愛媛県)の長官、
現地には行かなくてもいい。

 この位は、元々義経が持っていた位の
「検非違使」よりも位が高いのになぜ?
就任できたのか…それは頼朝の推薦であり
義経への優しさでした。

 なぜ頼朝は、不信感のあった義経に
位の高い「伊予守」を推薦したのか…
理由は2点あり
<1>義経の功績を評価した
<2>後白河法皇と義経を引き離したい

ということでした。

<1>の理由として、壇ノ浦の戦いでの
活躍は誰もが知るところですが…
その活躍に対しての褒賞でした。
<2>の理由としては、義経と頼朝の
不仲になりつつある理由が「検非違使」
という京都に在中しなければならない為に
起きる意思疎通の出来ない状況を改善する
為に京都にいなくてもいい「伊予守」を
与えて頼朝の目の届く鎌倉に連れ戻そうと
しました。

 しかし、そこにチャチャを入れてきたのが
「後白河法皇」でした。
義経を信頼しているのか…
頼朝のウィークポイントとして義経を
囲い込みたいのか…わかりませんが
検非違使と伊予守の兼務を認めました。
(通例は兼務を認めない)
法皇様から兼務を認めると言われたら
義経も断るに断れない為、両方の職を
兼務してしまいました。
 これにより頼朝からの優しさの歩み寄りを
義経は無下にしてしまい、二人の対立は
決定的になりました。

 通説では、頼朝に無断で「検非違使」の
官職をもらったから二人は対立したとなって
いましたが、結論として…
検非違使と伊予守を兼務した」というのが
二人の対立を決定的にした原因と考えます。

②:評判の悪い親戚とつるんでしまった

 ①では、二人の対立を決定的にした原因を
紹介しましたが、②では戦いになった理由を
ご紹介します。

 いつの時代も迷惑な親戚はいるものです。
盆、暮れ、正月で酒に酔って暴言を吐いたり
暴れたりしている人…
皆さんの親戚にもいませんか?
義経にも厄介な叔父さんがいました。
源行家」です。
ドラマでも「疫病神」扱いされていましたが
諸説あるようですが…正直頼朝にとってみれば
兄弟を見殺しにして、木曾義仲をそそのかし
自分に頭を下げず、口だけ出してきて
自分の配下にならない邪魔な存在でした。

 そこで、頼朝は「源行家討伐」を決め
義経にも討伐の方針を伝えました。
義経は身内で争う事を嫌い、
行家と話し合いの場を設けて、頼朝に
頭を下げ配下になるよう説得しましたが…
年の功なのか、べしゃりのプロなのか
逆に行家に「お前も頼朝に殺されるぞ」と
言われ納得してしまい、頼朝討伐に加担して
しまい二人は不仲というレベルではなく
」となってしまいました。

 結果論ではありますが、義経は
後白河法皇」と「源行家」という
たぬき親父と交流を持ってしまったことが
自分の評価を下げ、転落人生が始まります。

5、義経の転落人生

 頼朝討伐を決意した「義経・行家軍」は
たぬき親父のボス「後白河法皇」から
頼朝討伐の院宣」をもらい、立ち上がり
ますが…兵が全く集まりません。
 
 それもそのはず、義経が頼りにした
近畿にいる武士たち平氏には恨みや不満が
あったので義経に味方しましたが…
頼朝には恨みも不満もないのでわざわざ
リスクは取らないですよね。
 結果、兵が集まらなかった「義経・行家軍」
は空中分解、色々説はありますが…
口だけ番長の行家は早々に撤退・逃走し
ていましたが、近畿地方で捕縛され斬首。
義経は、九州に行ったとか北信越に行った
とか説は様々ありますが、最終的には
奥州藤原氏のもとへ命かながらたどり着く
ことができました。

 「藤原秀衡」の元に身を寄せた義経は、
秀衡とともに頼朝打倒を目指しましたが
後ろ盾の秀衡が病に倒れ、亡くなって
しまいます。
 秀衡亡き後、藤原泰衡が後を継ぎますが
頼朝からの圧力に屈し、義経を守らず…
義経を倒してしまいました。
享年31歳でした。

6、義経に生き残る道はなかったのか?

 最後に、源義経は生き残る術は無かった
のかを考えたいと思います。

 歴史探偵Qの勝手な考え(素人ですが)
2つの方法があったのではと思います。

①:自分の立ち位置を理解し行動する

 まず、義経の性格や行動が変わる事を
前提に考えますが…
・頼朝と仲が悪くなった原因である
 源平合戦の戦い方から改め、頼朝の
 作戦を忠実に実行します。
・後白河法皇との付き合いはそこそこに
 鎌倉へ常駐し頼朝の配下である事を
 全ての御家人に示す。
・検非違使と伊予守は兼任しない。
とにかく目立たない、頼朝に忠義を誓う
これ絶対です。

②奥州藤原氏の協力

 最終的に追い込まれた義経が頼ったのは
奥州藤原氏ですが、藤原秀衡・国衡は義経に
協力的でしたが、泰衡は最終的には
裏切りました。
 そこで義経は、秀衡死後に泰衡を討ち
国衡とともに奥州藤原氏を率いて
鎌倉軍と戦う事を考えました。

 歴史のIFを考えるのは非常に楽しいですが
客観的に考えると私の2つの案も厳しい
かと思いました…
 まず①ですが、義経死後も頼朝の
身内殺しは続き…義経とは比べ物にならない位
忠実に使えていた弟の範頼も殺しますので
結果的に、義経がいくら猫をかぶっていても
殺されていたかもしれません。
 唯一の逆転できる方法は頼朝が死ぬまで義経が
生きていたら、義経が鎌倉殿になっていたかも
しれません。

 ②ですが、結局自分の味方が少ない義経は
人頼みの作戦しか作れません。
頼朝と北条氏のように、義経も奥州藤原氏と
血縁関係があれば味方につく可能性があり、
泰衡も協力したかもしれません。
人頼みほど危険な作戦はありません。

今回、改めて義経を調べ記事にしましたが
日本人は義経が好きなんだな〜と改めて
思いました。
天才、英雄、強大な相手との戦い、
非業の最期と日本人の感情を揺さぶる
キーワードがふさわしい人物だったなと
思いました。
大河ドラマでの義経の役割も終わり
(ネタバレすいません)
源家の最後が着々と近づいています。
今後の大河ドラマも楽しみです。

以上
調査報告 完了

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