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【全文無料公開】 日本最古の史書『古事記』と『日本書紀』はなぜ、内容が異なるのか?(月刊『歴史人』4月号)

歴史No.1雑誌・月刊『歴史人』4月号から抜粋された記事を、無料で全文を大公開!

日本最古の史書である『古事記』と『日本書紀』は、同じ時代に編纂されたと考えられています。
しかし、内容にはいくつかの違いがあり、現在でも研究が続いています。同時代の史書でありながら、なぜ内容が異なるのでしょうか?
時代範囲や伝承の数などの相違を検証。
その理由をさまざまな視点から考察していきます。
第一線で活躍する歴史研究者&歴史作家が、最新の歴史研究レポートをお届けします。

監修・文/瀧音能之

たきおと よしゆき/1953年生まれ。駒澤大学文学部歴史学科教授。『風土記』を中心として、出雲などの地域史を研究。著書に『古代日本の歩き方その謎を解明する!』、『出雲の謎大全』(ともに青春出版社)など。



国家的大事業の裏側をひもとく! 『記紀』の内容の違いとは?

『日本書紀』に関わっていたとされる藤原不比等
大宝律令の制定などを推進し、『日本書紀』の編纂にも関わっていたともいわれる。 しかし、具体的な痕跡は現在のところ発見されていない。
『前賢故実』国立国会図書館蔵

「天皇家」の歴史書と「国家」の歴史書 
『古事記』の3分の1は神話

 『古事記』と『日本書紀』は現存する最古の歴史書である。ともに、天武天皇の時代に編纂が始められ、8世紀の初め、すなわち、奈良時代の初期に成立している。

 歴史書の編纂は国家的な大事業であり、大変な負担であったと思われる。それにもかかわらず、2種類の歴史書の編纂がほぼ同時並行で進められているのは、それなりの理由があったと考えざるを得ない。

 『古事記』と『日本書紀』について具体的にみてみると、まず、『古事記』は、上巻・中巻・下巻の3巻からなっている。このうち上巻すべては神代にあてられている。つまり、神話の時代ということになる。したがって単純にいうと『古事記』の3分の1は神話ということになる。現代の感覚では、神話が歴史といわれると違和感があるであろうが、古代人にとっては神々の活動は歴史なのである。

 したがって中巻から人代となり、最初に登場するのが初代天皇とされる神武天皇ということになる。そして、下巻の最後を飾るのが初の女性天皇の推古天皇であり、紀伝体で叙述されている。紀伝体は中国の叙述形式であり、皇帝の歴史を中心に( 本紀 )、各々の時代の家臣の功績を記す( 列伝)というもので、『古事記』はさほど厳密ではないが、紀伝体を用いている。

『日本書紀』は全体の15分の1が神代
最後の巻30を飾るのは持統天皇

 これに対して、『日本書紀』は全30巻から成っていて、巻1と巻2が神代となっている。つまり、全体の15分の1が神代となり、『古事記』と比較すると割合が低いように見受けられる。たしかに数としてみれば、『古事記』の3分の1よりはかなり少ない感じがするが、全体の15分の1が神話というのは、決して神代が軽視されているとはいえないであろう。

 『日本書紀』の巻30を飾るのは持統天皇である。いみじくも『古事記』の最後が推古であり、この点に注目すると、『古事記』も『日本書紀』も最後は女帝で終わっている。この点は興味深い点ではあるが、特段の理由をみつけることは困難であり、偶然とせざるを得ないであろう。

 『古事記』の叙述形式が紀伝体であるのに対して『日本書紀』は編年体が採用されている。編年体は、出来事を古い年代順に記していく方式であり、律令政府は、『日本書紀』以降の『続日本紀』・『日本後紀 』・『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』といった六国史をすべて編年体で叙述している。

別の伝承を伝える
日本書紀の「一書」

 また、『日本書紀』は、本文のあとに「一書(あるふみ)」として別伝承を記載している箇所があり、特に神代に多くみられるという点が『古事記』にはみられない特徴である。

 これらのことから『古事記』と『日本書紀』は類似の要素もあるが、『古事記』が神代を重視し、天皇家の出自の正しさを強調しているのに対して、『日本書紀』は「一書」の存在からもわかるように、豪族たちの神話も取り上げ、国家の歴史を述べようとしていることがわかる。


当時の東アジア情勢から考察 なぜ『記紀』の編纂が行われたのか?

律令制の一環としての『記紀』編纂

 『古事記』や『日本書紀』が、ともに天武天皇の命によって編纂が開始されたことは、7世紀当時の東アジアの情勢と無関係ではない。たとえば、朝鮮半島をみると、百済・新 羅・高句麗の3国が互いに対立し、斉明6年(660)に百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされ、新羅の勢力が強まっている。

 中国はというと、これに先立つ推古26年(618)に隋に変わって唐が成立している。東アジア全体にいやがおうにも緊張感が高まってきているのである。

 こうした状況に対して、日本側にも何がしかの対応が迫られることになる。百済の滅亡時、日本は復興のための援軍を朝鮮半島へ送り、唐・新羅連合軍と戦闘を交えるにいたった。白雉14年(663)の白村江の戦いである。この戦いに大敗した日本は大陸への足がかりを完全に失うことになる。

 当時、皇太子の立場で称制をとっていた中大兄皇子は、唐・新羅による日本への攻撃をも視野に入れなければならなくなったのである。大宰府の北に水城を設けたり、対馬や壱岐などに烽を設置したりしたのも、唐・新羅の侵攻に備えたものといえる。さらに、北部九州から瀬戸内海周辺の地域に大野城・鬼ノ城・高安城などの朝鮮式山城を築いたのもその一環といえる。そして、中大兄皇子は天智6年(667)に近江大津宮へ遷都と し、翌年、即位して天智天皇となるのである。

 7世紀後半は、東アジアにとって激動の時代であり、日本も例外ではなかった。それぞれの国がより強力な国家体制の構築を目指し、躍起になっていたのである。このようなとき、天智10年に天智天皇が崩御してしまう。強いリーダーシップとカリスマ性を持った天智天皇の崩御は、日本にとっては大きな痛手であっただろう。

天智天皇の息子である大友皇子にとって、 大海人皇子(天武天皇)は叔父にあたる。 大海人皇子は天智の娘である鸕野讃良皇女 (のちの持統天皇)を妻にし、血筋は確かだった。壬申の乱後、王位は天武天皇・持 統天皇の血統へと受け継がれていく。

 当時の朝廷はというと、後継者として天智天皇の子である大友皇子がいた。おそらくは天智天皇のあとを受けて即位したと考えられるが、その詳細については明らかになってない。というのは、大友皇子はすぐれた人物であったようであるが、何しろ当時の政界で最も実力のあった人物は、天智天皇の同母の弟である大海人皇子であった。大海人皇子は、死の床にあった天智天皇から後継を頼まれるが、これを拒否し、仏道修行のためと称して、大和の吉野へ逃れていた。

 天智天皇の崩御をうけて、大海人皇子は、吉野に従ってきていた下級官人の舎人らと共に挙兵した。これが古代史のなかで最大の内乱である白雉23年の壬申の乱である。

 大海人皇子側についたのは地方豪族たちが主で、大豪族としては大伴氏くらいであった。しかし、大海人皇子は、すばやい行動で東国を押さえ、大友皇子の近江朝廷軍を破り、勝利を収めた。

新しい政策を積極的に推進した天武天皇

 大海人皇子は、672年に飛鳥浄御原宮を都として即位し天武天皇となった。天武天皇は、多くの大豪族を破って実力で皇位を得たこともあって大胆な政策を展開した。たとえば、八色の姓で天皇を頂点とする身分秩序を明確にしたり、複都制を構想したりした。のちに、天武天皇の後を継いだ持統天皇が遷都した藤原京も天武天皇の時代に造営が開始されている。

 天武天皇は律令制を積極的にとり入れたが、飛鳥浄御原令の施行は持統天皇の時代になってからであった。

 こうした積極的な諸政策の中で『古事記』や『日本書紀』の編纂がスタートしたのである。『古事記』や『日本書紀』の編纂は、太安万侶の序にもあるように今までの歴史の誤りを正すためとされている。表向きはまさにその通りかと思われるが、『古事記』・『日本書紀』といった歴史書をまとめる背景には、自らの行為の正統性を誇示するねらいがあることは否めないであろう。武力で相手を倒すとともに、自分の行動は正義であるという根拠が必要であり、動乱のあとには歴史書が作られるのは古今のならいといえる。


『歴史人』2024年4月号

特集:いまさら聞けない! おとなの歴史学び直し企画「古事記と日本書記」

ほぼ同時期に作られた2つの史書の内容と編纂目的を徹底比較! 誰がどのような意図で編纂したのか? 天地開闢から日本国誕生まで、古代神話の核となる冒頭のエピソードをどう解釈するか? 「神武東征」伝承は、はたして史実か? 謎の人物・神功天皇の正体とは? ほか、「記」「紀」の謎を解き明かしていきます。
好評連載【栗山英樹のレキシズム】第3回は城郭考古学者・千田嘉博先生とテーマ「城」についてガチンコ対談!

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2010年創刊の歴史エンターテインメントマガジン・月刊『歴史人』(発行:株式会社ABCアーク)。
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