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出世、結婚、懐事情、娯楽etc.Q&Aで知る戦国家臣の「実態」 〜前編〜

歴史No.1雑誌『歴史人』6月号から抜粋された記事を、無料で全文を大公開!
今回は戦国時代の家臣の実態についてです。
ひとたび出陣の命が下ると、戦支度を整え戦場へと向かった戦国家臣たち。
彼らはどのようにして家臣となり、武器を調達し戦に臨んだのか
また出世や結婚、懐事情はどうなっていたのか。
前編の今回は、仕官と習慣についての様々な疑問と回答を、Q&A方式で紹介。
戦国史研究の第一人者が、主君のために働き続けた彼らの実態に迫ります!

監修・文/小和田哲男

おわだ てつお/1944年、静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。戦国史研究の第一人者としてNHK大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』『軍師官兵衛』などの時代考証を担当。著書に『地図でめぐる日本の城』(帝国書院)、『徳川15代の通信簿』(大和書房)など。


【仕官編】  命を懸けて戦う 戦国家臣の“基本のき”

Q1 家臣にはどうしたらなれたのか?

A 武士身分の者が能力に応じて登用された

 武士身分の者は一定の年齢になり、主君への御目見得を果たしたうえで、能力に応じ登用された。武士身分ではない者の場合は、若き日の木下藤吉郎秀吉のように、小者といった城中の雑用係などを経て家臣に取り立てられることもあった。小者の仕事の一つが草履取りで、秀吉はこの草履取の時代に織田信長の目にとまり、足軽から足軽組頭となって出世していった話は有名である。なお、戦国時代の初め、兵農未分離の時には、農兵として出陣して大活躍をすればそれが武功として認められ、一人前の家臣に取り立てられるということもあった。

各家を渡り歩き活躍した山本勘助
今川義元に仕官を望むも叶わず、武者修行で諸国を放浪後、武田家に仕官。軍師としても知られる。


Q2 どうすれば出世することができた?

A 武功はもちろん、下剋上や人心掌握などの要因も絡まり合っていた

 戦いでの槍働き、すなわち武功が主君に認められるのが一番。一番首の功名をあげれば出世は早い。ただ、武功はそれほどでなくても、敵を調略によって味方にしたり、戦略・戦術を主君に進言し、その作戦で戦いに勝った場合も出世は早い。また、寝返りや裏切り、下剋上の時代ということもあって、主君に対する忠誠心が強い者が出世していったという側面もある。忠誠心をいかに示すかが、当時の武士には必要だった。

Q3 再仕官の道はどうなっていたのか?

A 条件次第で可能だったが、その道は困難だった

 江戸時代に入ると、儒教的武士道徳が一世を風靡し、「忠臣は二君に見えず」などといって主君を何人も変えることをタブーとする傾向があった。そのため、何人もの主君を変えた藤堂高虎などは、「腰が軽い」、さらには「風見鶏」などと陰口をたたかれる始末である。

 たしかに、戦国真っ只中の時代、大名同士の戦いで敗れた側の家臣は路頭に迷うわけで、浪人となった武士がたくさん出た。そうした浪人を勝った側が雇い入れるというケースが多くあり、武功をあげ、武名を知られた者の再仕官は容易だった。徳川家康の家臣団をみると、三河武士のほか、旧今川の家臣、旧武田の家臣、旧北条の家臣から成っていたことが知られている。

 ところが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後になると、武士たちの再仕官は困難になる。大名同士の戦いが無くなったことで、大名たちは新しい家臣を必要としなくなったのである。関ヶ原浪人が増えることになる。彼らが最後のチャンスと考えたのが大坂の陣だったが、夢は叶えられなかった。

Q4 隠居する際の手続きは?

A 早い時点で嫡子を定め、家臣団との融和協調を図りつつ、権力や財産を保持した

 戦国武将の平均的な一生を追いかけると、40歳代前半ぐらいで20歳を過ぎたくらいの嫡子に家督を譲るというパターンが多い。家督を子に譲って隠居の身となる。死後の家督争いを未然に防ぐための措置で、早い段階から嫡子を定め、家臣団との融和協調を図りつつ、権力や財産の保持をねらったものである。

 跡継ぎの男子がいれば問題はないが、いなかった場合、珍しい例がある。豊後の戦国大名大友宗麟の重臣立花道雪には女の子しかいなかった。道雪がその女の子に家督を譲りたいと宗麟に申し出て、それを宗麟が認めた文書が『大友家文書録』にある。

Q5 出家する場合にはどうしていた?

A 頭を丸めて、俗世間とは縁を切り、けじめや引退の意思を示した

 豊臣秀吉がはじめた第1次朝鮮出兵、文禄の役のとき、朝鮮に渡っていた黒田官兵衛が軍監として渡海してきた石田三成を怒らせてしまうということがあった。そのとき、官兵衛は、弁明するため、秀吉の許可なく帰国してしまった。無断帰国は軍令違反で、秀吉は官兵衛に蟄居謹慎を命じた。すると官兵衛は前非を悔いたことを形であらわすため、剃髪出家しているのである。俗にいう「頭を丸めて反省する」というわけで、このときから如水円清と号するようになる。黒田如水となるのは、まさに出家した文禄2年(1593)8月からである。

外交僧として活躍した安国寺恵瓊
安国寺で修行した後、戦国大名の下で外交を行う僧侶「使僧」として毛利氏に仕えた安国寺恵瓊のように、幼くして出家するケースもあった。



【習慣編】 決して楽ではなかった家臣の懐事情、結婚、相続etc.

Q6 家臣の収入源はどうなっていた?

A 与えられた土地からの年貢によって賄われていた

 家臣は主君から一定の土地を与えられる。その土地からあがる年貢が収入源である。これを知行宛行といい、そのことを文書にした知行宛行状も多く残されている。知行ははじめ貫高制だったが、やがて石高制となり、石高に応じた軍役が賦課されることになる。つまり、知行を与えられる「御恩」に対し、軍役を奉仕する「奉公」というわけで、「御恩」と「奉公」の封建的主従関係が築かれる。

 家臣たちは、いい働きをして主君に認められ知行を増やして出世することを夢みるわけであるが、主君も、家臣に与える土地を増やしたいと侵略を続けることになる。

Q7 家臣は自由に恋愛・結婚できたのか?

A 自由恋愛による結婚は基本的に認められず、ほぼ政略結婚だった

 秀吉とねねの結婚など、身分が低い家臣の場合は恋愛結婚ということもあったが、ある程度の身分になると自由恋愛による結婚は認められず、政略結婚がほとんどであり、親が決める場合もあれば、主君が家臣団の結束を強めるために仲立ちをすることもあった。

 また、戦国大名家によっては、分国法で他国の人との通婚を禁止している例もあった。今川氏親が制定した『今川仮名目録』にはそうした条項が見える。

今川仮名目録
駿河の大名・今川氏が大永6年(1526)に制定した分国法『今川仮名目録』。第30条には「他国との婚姻の禁止」の条項がある。


Q8 家臣に学問や教養は必要なのか?

A 自身の資質や権威を高めるうえで重要だった

 主君は家臣に学問・教養を身につけるよう奨励している。学問・教養がステータスとなっていたからである。有職故実、すなわち先例に関する知識や手紙を書く時の決まりである書札礼は不可欠であった。その他、和歌や茶の湯も教養として身につけておかなければならないものとされていた。また、「四書」といわれた『論語』など、「五経」といわれた『易経』の他、「七書」の『孫子』などの兵法書も読んでおくべき書籍だった。

Q9 相続はどう行われていた?

A 主君の許可が必要で、勝手に家督を譲ることはできなかった

 家臣の相続は、家臣が勝手に家督を譲るというわけではなく、主君の許しが必要だった。黒田官兵衛孝高から嫡子長政への相続の例をみておこう。

 後味の悪い形で敵対勢力だった宇都宮鎮房を謀殺した官兵衛は天正17 年(1589)5月、秀吉に対し「嫡子長政に家督を譲りたい」と申し出ている。この時、官兵衛44歳、長政22歳なので、家督交代にはふさわしい年齢だった。

 ところが、『黒田家譜』には、「秀吉公、孝高の才智をおしミて、年いまだ五十にもみたざるに、引こみ安楽に居らん事ハかなふべからずとて、隠居は猶許され給ハず」とあり、家督の交代は許しただけで、一般的な意味での隠居については許されなかったことがうかがわれる。

甲陽軍鑑
戦国大名・武田信玄の功績や軍法、名言などを記した『甲陽軍鑑』には、子・義信の謀反発覚など、武田氏内部の家督相続にまつわる描写もある。


Q10 上級家臣と下級家臣の暮らしに差はあった?

A 豪華な武家屋敷と質素な長屋が典型例で、暮らしぶりには大きな隔たりがあった

 城下に屋敷を与えられる場合、上級家臣ほど城に近く、下級家臣は城から遠くに住まわされることになる。その屋敷も、上級家臣は豪華な武家屋敷であるが、下級家臣は長屋住まいが一般的だった。

 また、上級家臣には何人かの従者がつくが、下級家臣にはそれもないし、出陣のときも、上級家臣は馬に乗って出るが、下級家臣は徒だった。身につける甲冑も、上級家臣は立派だったが、下級家臣の装備は粗末な物だった。

Q11 屋敷内で主君に何と呼ばれていた?

A 主君からは呼び捨ての「仮名」か、元服前の「幼名」で呼ばれていた

 武士は一生の間に何度も名前を変えている。生まれてすぐ幼名がつけられる。童名ともいう。元服して仮名と諱いみな、つまり名乗りを与えられ、さらに官途・受領名もあり、出家して法号もある。家臣は主君から苗字(姓)で呼ばれることはなく、仮名で呼ばれることが多い。もちろん呼び捨てである。稀に、親しい間柄だったり、小姓として仕えていた時代が長かったりすると、幼名で呼ばれることもあった。渾名で呼ばれることもあったらしい。

Q12 官僚タイプの家臣は武闘派の家臣を嫌った?

A 戦国後期、治安が安定すると、文治派と武断派の対立が生じ始めた

 
合戦が日常茶飯事だった時代は、戦いで武功をあげる武闘派の家臣が出世していったが、戦国後半、戦いが少なくなると、むしろ、内政に堪能な官僚タイプの家臣が台頭してくる。文治派と武断派の対立が生じ始めることになる。秀吉の家臣で文治派(奉行派)の石田三成らと武断派(武功派)の加藤清正・福島正則らの対立はそのよい例である。官僚タイプの家臣は「自分たちのお陰で政権が維持できている」と自負しており、逆に、武断派の方も、「自分たちのお陰で主君はここまでの勢力を得たのだ」と考えており、どちらも譲らなかったのである。

Q13 相手や場面によって変わる視線の向け方とは?

A 話す相手が主君なのか、同格の者なのかにより視線を変えるのが礼儀だった

 話す相手が自分と同格だった場合には顔を見て話したが、相手が主君だったり、目上の人の場合、顔を見て話すのは失礼というわけで、やや伏し目がちに視線を落として話をするのが礼儀とされていた。対座した時、やや視線を落として相手の左袖あたりを見るのがいいなどともいわれている。当時は、手紙を出す時にも、相手と自分の地位を考えて、どのような書き方をするのがいいのかといったルールがあり、対面する場合も、封建的身分制度のしばりがあり、それによって上下の秩序が維持されていたわけで、これも一つの教養であった。


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