見出し画像

Q&Aで知る戦国家臣の「実態」 〜後編〜 出世、結婚、懐事情、娯楽etc.

歴史No.1雑誌『歴史人』6月号から抜粋された記事を、無料で全文を大公開!
今回は戦国時代の家臣の実態についてです。
ひとたび出陣の命が下ると、戦支度を整え戦場へと向かった戦国家臣たち。
彼らはどのようにして家臣となり、武器を調達し戦に臨んだのか
また出世や結婚、懐事情はどうだったのか。
前編では、戦国家臣の”基本のき”である仕官や、習慣などについて見ていきました。
後編では、生活と合戦についての様々な疑問と回答を、Q&A方式で紹介。
戦国史研究の第一人者が、主君のために働き続けた彼らの実態に迫ります!

監修・文/小和田哲男

おわだ てつお/1944年、静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。戦国史研究の第一人者としてNHK大河ドラマ『どうする家康』『麒麟がくる』『軍師官兵衛』などの時代考証を担当。著書に『地図でめぐる日本の城』(帝国書院)、『徳川15代の通信簿』(大和書房)など。


[生活編] 家臣は平時、どのような生活を送っていたのか?

基本は早寝早起きで、睡眠時間は8時間ほど。政務中の空き時間に武術の稽古や読書に励むなど、時間を有効に使い、文武両道を実践していた。

Q14 家臣はどんな家に暮らしていたのか?

A 下級家臣は茅葺き屋根に藁や茣蓙を敷いていた

 上級家臣は一戸建ての豪華な武家屋敷に住むことができたが、下級家臣は長屋住まいがふつうだった。その長屋も茅葺き屋根で、室内も畳敷きではなく、板の間で、藁を敷いたり、茣蓙を敷いて座っていた。間取りは下級家臣でも大身の者は部屋がいくつかあるところに住み、下級家臣の下の者は一部屋か二部屋だった。このころから書院造りが一般化したため、間仕切りによって一棟を数室に分かつ方法で、障子や襖が用いられるようになった。明かりとして灯明皿や行灯が発達し、明るい夜を送れるようになったのもこのころからである。

Q15 家臣の勤務時間事情とは?

A 4時頃起床、6時出勤、14時終了と、現在と比べ健康的な働きぶりだった

 戦国大名の中には、家訓によって家臣たちの日常生活についての規範を示しているものがある。伊勢宗瑞(北条早雲)の『早雲寺殿廿一箇条』や加藤清正の家訓であるが、どちらも起床時間を「寅の刻」としている。午前3〜5時である。そして出仕の時間を「六ツ」すなわち午前6時としている。現在と異なり、起床時間も執務する時間もかなり早かった。大名によって勤務時間に違いはあるようであるが、午後2時頃には解放されるという例もあり、現代と比較すると健康的な仕事ぶりであった。

Q16 家臣はどんな食生活だったのか?

A 玄米や雑穀などを主食に、魚の干物や香の物、味噌汁など質素なものだった

 日本人が朝・昼・晩の三食を食べるようになったのは室町・戦国時代からといわれている。家臣たちも玄米や雑穀などを主食に、基本は一汁一菜の質素な食生活を送っていた。魚・貝などの他に、禅寺料理からはじまった精進料理の豆腐・湯葉や麩を使った料理も広まり、味噌を使う料理が増え、味噌を汁でのばし、それに野菜や魚などを入れた味噌汁が普及した。

 また、鉄砲で獲った鳥なども食べていた。

Q17 家臣は平時、どのような一日を過ごしていたのか?

A 朝6時から政務を行い、午後には武術などの稽古を行っていた

 伊勢宗瑞(北条早雲)の家訓『早雲寺殿廿一箇条』から家臣たちの日常を再現してみよう。4時に起床し、6時に出仕し、主君の側に居て、主君から声をかけられれば、「あっ」と返事をして、罷り出てその仕事をする。出仕中、少しでも暇ができたならば本を読んだりする。そのために、常に文字のあるものを懐に入れておくのがよい。出仕が終わって家に戻ったならば、家のまわりを見て回るようにといっている。「暮六ツ時」、すなわち午後6時には屋敷の門を閉じ、火の用心をして寝るように、と細かいところまで指示していたことが知られている。

Q18 家臣が楽しんだ娯楽とは?

A 鷹狩や相撲など体を動かすものや、和歌や茶の湯など室内の趣味があった

 家臣たちは、戦いとなれば第一線で働かなければならないので、娯楽も単なる娯楽ではなく、体を動かし、体力づくりになるものが多い。よく好んだのは鷹狩や相撲、それに蹴鞠など、体を動かすものである。乱舞も好んだ家臣が多かった。これは、舞楽を専門としない人が、舞の規定に拘束されず自由に舞うものである。他に、体を動かさないもので好まれたのが和歌・連歌、茶の湯で、稀に「立花」を好んだ家臣もいた。お花を生けるわけである。囲碁・将棋・双六も盛んだったが、博奕の勝負になりやすいということで双六を禁止した大名もいた。

Q19 戦場を生き抜くためにどんな鍛錬を行っていたのか?

A 兵法をはじめ、弓矢、鉄砲、乗馬などの武芸の基礎や相撲などを行っていた

 戦いに出ていくにあたって、家臣たちも自分の体を鍛えておかなければならなかった。そのため、日常的に馬術・剣術・弓術など武芸を習っていた。また、相撲を好んだのもそうした体づくりの一環としての意味もあったのである。これらは実際に自分の体を動かして鍛錬するものであったが、それだけではなく、座学によって、つまり、兵法書で兵法を学び実践に応用するということもあった。兵法書は「武経七書」といって、中国伝来の漢籍をいい、『六韜』『三略』『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』の七つをいう。これら漢籍を読みこなしたのが足利学校卒業生で、足利学校卒業生が各地の戦国大名家に軍師として招かれたのもそのためであった。


Q20 農作業に従事する家臣はいたのか?

A 農民とともに農作業に従事する家臣も存在した

 織田信長によって兵農分離が進められる以前、つまり兵農未分離の段階のときは、家臣も農作業に従事しているのがふつうだった。戦いの無い平時は農作業を行い、戦いの時だけ武士となって戦いに従軍する形である。そのため、彼らのことを半農半士ということもある。

 ところが、兵農分離が進み、武士は武士、農民は農民となると、家臣たちは城下に集住することが義務づけられ、農作業に従事する家臣はいなくなる。

 ただし、実際には例外的に、兵農分離後も自分の屋敷の周囲の田畑を耕作した例はある。


[合戦編] 統率の取れた戦闘を行うための戦地での流儀

Q21 戦時の費用はどう工面していたのか?

A 基本的には自分で準備する必要があった

 家臣たちは、主君から与えられた知行に応じて戦いの時に軍役を務めることになるわけなので、基本的には軍事行動にかかわる費用はすべて自弁であった。自分たちの槍・刀や鉄砲などの武器、甲冑も自力で用意する必要があった。それらの費用は、主君から与えられている知行によって賄わなければならなかったのである。ただし、稀にではあるが、主君から貸与される御貸具足もあった。

 戦いは短期決戦で終わるとは限らない。長期の遠征ということもある。その場合、食糧はどうしたのだろうか。これについては、多くの大名家に共通するいい方がある。それが「三日分の腰兵糧」という言葉である。「出陣のとき、三日分の兵糧は自分で用意しておくように」との意味で、文字通り武器だけでなく食糧も自弁ということになる。

 この場合、四日目からは、小荷に駄隊、すなわち輜重兵に運ばせた兵糧によって食糧が配給されることになる。これらは兵站奉行の仕事であった。


Q22 戦の手柄・戦功はどうやって確認していた?

A 複数の者が証言者として手柄を確認し合った

 家臣たちにとって、戦いの時、どんなに武功を立てても、それが主君に認められなければ論功行賞の対象にならない。そのため、自分の手柄をアピールする必要があり、多くの場合、自主申告することになるが、「敵の誰々を討ち取りました」と書いたのに続けて、「このことは味方の誰々が証人です」と付け加えていることが多い。

 つまり、複数の証言者がいることで、主君の方も家臣の手柄として認めていたことがわかる。

 また、戦場では軍目付が軍監として主君の目の代わりになって部下の働きを監察していたことも知られている。


Q23 武士の初陣の年齢は何歳ぐらい?

A 13歳から17歳くらいが平均的だった

 初陣の年齢に決まりがあったわけではないので、それぞれの武将の事情によって違っている。

 早い例は13歳で、徳川家康の家臣本多忠勝が13歳である。織田信長は14歳で徳川家康は17歳である。13歳から17歳くらいに大体初陣を果たしているが、中には長宗我部元親のように、22歳の初陣という例もある。

 親としては、子どもの将来のために、「絶対勝てる」という戦いまで初陣を延ばすこともあったようである。


最新号 『歴史人』7月号

保存版特集【敗者の日本史】
歴史は「敗者」から読み解くと面白い!
・廃仏と物部氏
・大化の改新と蘇我氏
・源平合戦と平氏
・鎌倉幕府滅亡と北条氏
・英雄から転落した新田氏
・本能寺の変の誤算と明智光秀
・信玄の思惑と勝頼の苦悩 武田氏
・桶狭間での敗戦と今川氏
・清洲会議の失策と柴田勝家
・秀吉の上洛要請を拒み続けた後北条氏の誤算
好評連載「栗山英樹のレキシズム」第6回は河合敦先生と語る「偉人の生き方・名言から学ぶ」です!

『歴史人』(毎月6日発売)のご紹介
2010年創刊の歴史エンターテインメントマガジン・月刊『歴史人』(発行:株式会社ABCアーク)。
カラーイラストやCG、貴重な資料や図表などを豊富に使い、古代から近現代までの歴史を、毎号1テーマで大特集しています。執筆人はいずれも第一線で活躍している著名な歴史研究者や歴史作家。最新の歴史研究、そして歴史の魅力を全力で伝えます!