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「こんな時代に生まれたかった」と口にするのは本当に悪いことなのか

 例えばあなたが若者で、体験したことのない「高度経済成長期」とか「バブル期」をうらやみ、その時代に青年期を過ごしてみたかった、と口にしたとする。すると必ず小うるさい人が現れてこう言うだろう。いやいや、そのころにも公害や貧困などの社会問題はあった。令和の今の世のほうがよっぽどいい。浅薄な知識だけで、生まれてもいない時代のことをうらやむのはやめろ…と。

 なるほど、これらの主張は確かに筋が通っている。だが、真に問題とすべきは、若者に「生まれてもいない時代」を羨望せしめるほど、現代が先の見えない、希望のない時代だということではないのか?

 そんな時代に小さくなって生きるより、現代日本の基礎を作った時代に生きて、個人の幸せと社会的栄達とを二つながらに成就したかったと考えるのは、むしろ自然なことではないだろうか。

 中国には「乾隆の世を見るの福なかりき」という諺がある。乾隆帝の時代は、清朝三百年の中でも間違いなく最盛期だった。国内には富があふれ、社会の最下層に生きる人々すら、芝居や講談などの娯楽にありつくことができた。知識人が知識人として、農民が農民として、官吏が官吏として、それぞれの職分を全うしていれば十分に食っていける、実に平和な時代だった。

 もっとも、今日の歴史研究は、乾隆時代が決して理想の聖代ではなかったことを、いやというほど明らかにしている。国内秩序の安定によって人口が増加したことは、かえって後世の食糧危機を加速させた。官吏の腐敗ぶりは頂点に達し、長年の弾圧に耐えかねた学者は次々と御用学者に転じていった…。

 だが、後に中国を襲った災禍の数々を思うとき、乾隆時代はこれらの欠点を忘れさせるほど輝かしいものに映る。

 アヘン戦争、太平天国の乱、アロー号戦争を経験した世代の人々が、乾隆の盛時をうらやみ、自らの生きる時代を呪ったとしても、彼らを責めるにはあたらない。むしろ無理からぬことではないのか?

 もしこれらの人々に、今日の歴史研究の成果を——乾隆時代が、決して「聖代」ではなかったという証拠の数々を——見せつけたとして、果たして彼らは何と答えるだろう?
 きっと力なく笑いながら、こう言うに違いない。
 「でも少なくとも、今の世よりはましです」
 
 そんな思いが「乾隆の世を見るの福なかりき」という言葉を生んだということに、そして今の若者が、自分の父や祖父が生きた時代をうらやむのもまた、これと似たような思いに根差しているということに、「小うるさい人々」はそろそろ気付いてほしいものだと思う。

 度を越した懐古主義は確かに警戒すべきだが、かといって「未来はもっと良くなる」という「信仰」が崩れ去った今の世にあって、過去をうらやむなというのも無理な話である。

 そもそも、過去に理想を求めるのは、未来に対してのそれと比べて、格段に長い歴史がある。東洋にあっては孔子学派を、西洋にあってはルネサンスを想起してもらえばよい。孔子ははるか昔の周代を「理想の世」としていたし、西洋の学問・芸術の大系を一変せしめたルネサンスは、実はギリシャ・ローマ文化への回帰という一面を持っていた。

 確かオスカー・ワイルドの言葉だったと思うが、「救いは過去にしかない」という警句は、我々人間の本質を巧妙に言い当てている。曖昧模糊とした未来より、すでに経験してきた過去のほうが、よほど信頼できるというものだ。
 少なくとも近代にいたるまで、人間はなべて懐古主義者だったのである。
 
 人間と、その創造になる社会が進歩するものだという、スペンサー式の「信仰」が一般に広まったのは、一九世紀末から二十世紀にかけてのことだった。技術の急速なる革新と思想の成熟が、人間をかくも自信家にしたのだろうか。この一世紀余りの間に、人間は「進歩」という言葉を疑おうともしなくなった。過去に代わって未来が希望の象徴となったのである。

 今やその「信仰」は地に堕ちて、懐古主義が再び顔を出そうとしている。そうした風潮の根底にあるものを理解せず、口先だけの理屈でこれをやりこめようとする人たちが、はっきりいって私は嫌いである。
 かといって、懐古主義の極地である、トランプ氏の主張——Make America Great Again——のようなものに、手放しの賛辞を贈る気にもなれない。

 結局私にできるのは「人間は進歩するものである」という信念が誰の心の中にもあった時代に生まれたかったと、ため息をつくことだけなのである。

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