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文化大革命略史Ⅱ:近代化をめぐる葛藤

建国

 1949年、国民党との激しい内戦の末に勝利を収めた中国共産党は、同じく国民党に反対していた民主派諸勢力と連合し、中華人民共和国を成立せしめた。

中華人民共和国の成立を宣言する毛沢東

 意外なようだが、この時点ではまだ共産党による一党独裁体制は確立しておらず、党派の垣根を越えて新政府の枢要に集った人々は、まず中国を普通の近代国家に改造するという目的のもとに結束していた。
 共産党の悲願である社会主義体制の構築は、その後で段階的に進めて行けば良いとされていたのである。

 しかし、国家主席の座に就いたばかりの毛沢東の心境は複雑だった。
 毛は近代化そのものには反対ではなかったが、西洋の先進国がたどった近代化コースをそのままなぞるのは、中国の実情にも合わないし、なにより彼が嫌う階級格差を中国に持ち込むことになるとして、強い拒否感を示した。
 彼はあくまで、中国流のやり方に則って近代化を遂行するべきだと考えた。
 西洋由来の技術に依存するのではなく、人海戦術を駆使して生産性を向上させれば、近代化の達成は十分に可能だと思い込んでいたのである。
 ——現代人からすると、あまりにも無茶苦茶な論法であることは間違いないが、毛には強い確信があった。
 実際、彼はこの信念に沿って大衆を組織し、長かった内戦を共産党の勝利へと導いている。
 それだけに、あえて彼に諫言かんげんしようとする者は稀であった。

 だが間もなく、毛の唱える「中国流」のやり方では、生き馬の目を抜く冷戦時代を生き残るのはまったく不可能だという事実が明るみになってくる。

朝鮮戦争への参戦

 1950年6月、北朝鮮と韓国との間に朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮の指導者金日成キムイルソンは、同じ社会主義国である中国にも参戦を要請するが、中国側は逡巡した。建国後1年も経たぬうちに、韓国の背後に控えるアメリカを敵に回して大戦争を遂行するのは、絵空事にも等しい暴挙だと思われたからである。
 さらには軍隊の近代化もほとんど着手されておらず、主な装備は国民党軍や日本軍からの鹵獲品ろかくひんというありさまであった。
 これにはさすがの毛も、積極的な参戦は控えるべきだと主張するほかはなかったが、同時に、もし北朝鮮の存続そのものが危ぶまれるような事態になれば、参戦もやむなしと考えていたらしい。

 9月、国連軍による仁川インチョン上陸作戦が決行され、 緒戦における北朝鮮軍の優位が覆されると、いよいよ中国の参戦が現実味を帯びてきた。
 毛の強いイニシアティブのもとに、中国参戦が正式に決定されたのは、それからおよそ1ヶ月後のことだった。
 ただし、実戦に参加するのはあくまで「義勇軍」であり、正規軍ではないという体裁が取られた。これはアメリカに中国侵攻の口実を与えないための措置だったとされている。
 毛は、その指揮権を、古くからの盟友彭徳懐ほうとくかい将軍に委ねた。

彭徳懐

彭徳懐という男

 彭は誠実な男だった。物乞いをせざるを得ないほど困窮した貧農の家に生まれ、金持ちに足蹴にされながら成長し、誰もが幸福に暮らせる社会の創造を夢見て共産党に入党した。国民党との戦いで頭角をあらわした生粋の軍人であり、同郷人である毛とは固い友情で結ばれていた。
 彼の指揮のもとに、中国義勇軍は獅子奮迅の戦いぶりを示した。装備では劣る敵軍を相手に、得意のゲリラ戦術を駆使して互角にわたりあった。
 こうして、近代兵器をほとんど持たない軍隊でも、努力と工夫次第では、優勢な敵軍を攪乱かくらんさせられることが証明されたのである。
 毛は、自分のかねてからの信念を補強してくれるこの結果に大変満足し、技術力では諸外国に劣る中国も、人民の努力と忍耐さえあれば、自力で近代化を達成できるという確信をますます強固なものにしてしまった。

 だが皮肉なことに、実際の戦争指導に当たった彭将軍は、中国と諸外国との技術力の差を痛感していた。そして次第に、中国流の人海戦術を重視する毛沢東から遠ざかり、近代化を推し進めるためには、まずは技術力の充実をはかるべきとする現実主義的な考えを持つようになる。

ユートピアを夢見た毛沢東

 このように、毛の近代化推進論に異議を唱え、より地に足の着いた近代化論を提唱した者は、ひとり彭のみにとどまらなかった。
 毛と共に、苦難の長征を耐え抜いた劉少奇や鄧小平、そして周恩来といった古参の同志たちもまた、毛の言う「中国流」のやり方では、近代化の達成はとうていおぼつかないという事実を、正確に見抜いていた。
 彼らは三人とも海外への留学経験を持っていた。劉はソ連、鄧と周はフランスで学び、それぞれ近代化の実例をつぶさに見て知っていた。
 かたや、毛沢東はどこにも留学したことがなかった。20代の頃に一度だけフランス留学の話を持ち掛けられたことがあったが、本人の弁によると「自分の国についてまだ十分に知っていないし、中国に暮らすほうがいっそう有益だと感じた」(E・スノー『中国の赤い星』)ので断ったという。

青年時代の毛沢東

 代わりに彼は広汎な読書によって海外の知識を吸収した。後に彼は、青年時代の自分は、アダム・スミス、ダーウィン、ジョン・スチュアート・ミル、ルソー、スペンサー、モンテスキューらの著作をむさぼり読んだと述懐している。その勉学への熱情には目を見張るものがあるが、結局、生きた海外事情を知らないという彼の最大の弱点をカバーし切ることはできなかった。

 ところで、毛は「中国流」の近代化を推し進めた果てに建設されるべき社会について、どのようなヴィジョンを持っていたのだろうか。
 1949年6月に発表した文章で、彼は次のように述べている。

目標は中国古来のユートピア大同だいどうの実現にある。

「人民民主主義独裁について」北京外文出版社訳

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