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ロマン主義時代の群像Ⅱ:詩人たちの孤独

 文化は社会を映す鏡であるという。
 ロマン主義時代のそれも例外ではなかった。
 ショパンの華麗なエチュードも、溢れんばかりの情熱をたたえたバイロンの詩文も、燃えるような筆致で描かれたドラクロワの絵画も皆、根底に秘めていたものは、矛盾に満ちた社会への反発と、身を焦がさんばかりの怒りであった。

A・プーシキン(1799-1837)

 ことに、プーシキンの頌詩「自由」は、やや雅味には欠けるが、それらを最も率直に表現している。

専制の悪党!
おまえとおまえの玉座がにくい
おまえの滅亡とおまえの子らの死を
非情の喜びで見てやりたい
おまえのひたいに
人民は呪詛の刻印をよむ
おまえは世界の恐怖
自然の恥辱
地上における神への罵声

松田道雄『ロシアの革命』より

 この詩は専制政治に反対する人々の愛唱するところとなり、ために詩人は数年間の流刑生活を余儀なくされた。
 ときの皇帝(ツァーリ)ニコライ1世の心変わりがなければ、彼は一生サンクト=ペテルブルグの土を踏むことも叶わなかったかもしれない。

ニコライ1世

 1826年、皇帝直々に恩赦を言い渡されたプーシキンは、その「寛大な恩典に感激して、この皇帝のために働くことを誓い、かつ自分でもそう決心した」(大泉黒石『ロシア文学史』)。
 かつて権力に猛然と食ってかかったあの気概はどこへ行ったのか?
 昔日の詩人を知る者は、その変心を非難した。

 しかし、プーシキンとて一人の人間だ。雄大な自然の広がる流刑地での生活は、確かに彼の文学にインスピレーションを与えた。
 けれども、何もない鄙(ひな)で、四六時中監視の目に晒されながらくすぶっていれば、人間だれしもいつかは限界が来る。
 自由奔放な性格の持ち主だったプーシキンには、そういう境遇が余計骨身に応えたことだろう。
 そこへ来てこの「恩典」だ。感謝しない方がおかしいというものではないか。

 実際、皮肉屋のプーシキンには珍しく、この時の彼は本当に、心から皇帝の「慈悲」に感激していた。
 こういう人間らしさが、彼の魅力の一つでもある。

 だが、皇帝の胸の中では、機械のように冷徹な打算が働いていた。
 ——もしこの男が流刑地で死ねばどうなるか。民衆は彼を、権力に殺された「自由の殉教者」とみなすだろう。そんな危険な男を遠方に置いておくよりは、手元に置いて飼い殺しにした方が良い。その上さらに、都会での放蕩生活が祟って早死にでもしてくれれば良いのだが…。

 その思惑は見事に当たり、1837年にプーシキンは妻の不貞をめぐる決闘で致命傷を負って死んだ。

プーシキンの妻ナターリア

 臨終の床に臥せっていた詩人を、皇帝は親しく見舞って、遺された家族の面倒を見ることを誓った。
 ところが、一度はその変心に憤ったものの、最後までプーシキンを愛し、その死を悼んで集まった民衆に対しては、こうした温情主義は途端になりを潜めた。
 共に詩人の死を悼むどころか、皇帝は彼らが葬列に加わることさえも許可しなかった。
 プーシキンの死にかこつけて、示威運動でも起こされたらたまらない、というのがその本心だった。
 かくして、詩人の遺骸は深夜密かに運び出され、葬られた。

 ここに、ロシア文学は一個の巨星を喪失したのである。民衆の悲嘆と皇帝の安堵とに送られて…。

プーシキンの臨終

 しかし、その魂の継承者は思いのほか早く出現した。レールモントフである。プーシキンと同じく非凡で、そしてプーシキンに輪をかけた無頼漢だった。

M・レールモントフ(1814-1841)

 その代表作『現代の英雄』は、世が世なら「英雄」たりえた才気煥発な青年ペチョーリンが、専制のまかり通る世の中で孤立し、無軌道な生活の果てに夭折する様を描いて、当時非常な評判を呼び、露都の紙価を高からしめた。

 レールモントフというのは、この小説の主人公がそのまま現実に飛び出してきたような男だった。彼が自分自身をモデルに『現代の英雄』を執筆したことは誰の目にも明らかだった。
 しかし、彼自身が、自ら著した小説の主人公と同じように夭折する運命にあるとは、神ならぬ身の知る由もなかったろう。

 レールモントフが敬愛するプーシキンと同じく決闘に斃れた時、彼はまだ26歳(今の私と同い年!)に過ぎなかった。

 この二人の死により、ロシアにおけるロマン主義文学の英雄時代は幕を閉じた。
 それは同時に、デカブリストに共感する青年たちの時代が終わったことを意味していた。
 だが、その精神的伝統は、ナロードニキと、はるか後代の革命家たちへと受け継がれていくのである。

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