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椎名林檎『無罪モラトリアム』(1999)

アルバム情報

アーティスト: 椎名林檎
リリース日: 1999/2/24
レーベル: East World(日本)
「50年の邦楽ベスト100」における順位は57位でした。

メンバーの感想

The End End

 以前このnoteで”私は初期モノフェチだ”と書いた。それをしろみけさんに話したら”じゃあ、『無罪モラトリアム』はたまらないと思うよ”と言われたのだけど、実際聴いたらまんまとその通りでした。東京事変や、私がリアルタイムに触れてきた椎名林檎の作品における洗練され方がどうも得意ではなかった(ちなみに東京事変で私が気に入っている曲はほとんど浮雲こと長岡亮介氏の作だった)が、このまとまっていなさは確かにたまらない。溢れ出る”これをやりたい!”と、それを手なずけていられない感じが私のドツボです。
 最初から最後まで、歪んだシャウトにキュンキュンしっぱなし。このサウンドを志向している人が、バンドではなくソロミュージシャンとして出てきたのも面白い。

桜子

 椎名林檎がラジオで、バカラックについて語っていたのをこのアルバム聴いて思い出しました。
それはバカラックの曲が持つストーリー性、ドラマチックさ、エバーグリーンな力と、若さや反抗を感じる歪んだ音や、鉄鉄しいジャキジャキした音が見事に迎合できていて、それがすごく革新的だと思ったから。

俊介

 一時期、歌舞伎町の風俗店の黒服として働いてた時期があって、そういえばデビュー前後の椎名林檎って自身のこと「新宿系」とか言ってたっけと思い出した頃はもうそこそこ仕事が板につき始めた頃。
 初めてこのアルバムを聴いた当時の田舎中学生のボンクラジャリボーイとしては「歌舞伎町の女王」で垣間見えるわかりやすい露悪性に対しては半信半疑で、あの世界観はかなりフィクショナルなものと解釈してたんだけど、実際歌舞伎町に居着いてみると、思ったよりあの世界は事実、というかアレより少し刃先の尖った話がそこそこ耳に入ってくる、嫌でも。林檎嬢の思惑通りかその刃先に上手く傷つけられて、そういう出来事に直面してショックを受けても、同僚は慣れたようにのほほんとしてて、次第に自身もそういうのも聞き流せるようになってきた、売り掛け飛んで店から消えた嬢の行方を同僚と紫煙燻らせつつ勘案できるくらいに。
 鈍感故にその場では気づけないこと尽くしなんだけど、当時実感してた変化は「無罪モラトリアム」が素直に聴けるようになったということ!と、同時に「無罪モラトリアム」ていうタイトルが割と当時の自分のカスな状況に重なってしょうもない一瞬のトリップ。
 兎にも角にも、時代にそぐわないサウンドのザラつき(これコンプの設定所以なんすかね)とか、歌詞の女たちのアンニュイさとか、とにかくいい感じ。先達がこんな素敵に歌舞伎町の悲哀を歌い上げてくれるから、自分自身に否応がなく降りかかってくる怠さも、掃いて捨てれるようになってくる。正しくない椎名林檎の服用の仕方ではあろうけど。
 休憩がてら店の外でタバコ吸いながら見つめる向かい側解放窓の大衆居酒屋、新歓コンパみたいな大学生が盛り上がってゲームしてて、新入生みたいな女の子が隣の先輩に無理やり飲まされててその卓から溢れ出る純真と、自分の後ろ側の地下性風俗店の粛々としたギャップ、大衆居酒屋と風俗店を隔てる通路の真ん中に引かれてる境界線のギャップ、大学1回生の俺と、今の俺を隔てるキモいギャップ、そのギャップが織りなす不可知な違和感感じときとは、大体このアルバム聴いて洗い流してた。
 そういえば、このnoteみてる大学受験生か大学1回生、たくさん先輩に奢って貰いたいときは飲み会の初手で「とりあえず生で!」っていうといいですよ。飲みサーの先輩は大体みんな面白がって、可愛がってくれるので。胃の中に船が浮かべるほど飲める。
 勤務終わり際に外出てもう1回さっきの座席みたらさっきの女の子と先輩の席だけ空いてた。
 ライブ中、観客席に向かって、使用済みタンポン投げ込んでた女性が、時を経て「女の子は誰でも」を歌い出したときに麗しきティーンエイジャーだった自分が感じた謎の怒りとか失望みたいなものはいつの間にか、人間はどっかしらのタイミングでもう一度だけ、乙女ないしは少年に戻れる瞬間があることを教えてくれて、本来経験する必要も無いような痛痛しさの中で勝手に擦れた、もう一度元に戻そうと勝手に四苦八苦してる当時の自分に与えてくれる先例になった。サリンジャーの「エズメのために」を読んだ時みたいなかんじ。「無罪モラトリアム」視聴後の感じと「エズメのために」の読後の印象は近似。
 これ全然レビューに関係ないP.Sなんですけど(そもそもまともにレビューしてないけど)、「授業惚けて昼間にアパート訪ねたら、発泡酒の500ml缶を片手に持ってスウェットのまま出てくる彼女」がもし存在したら、それは個人的にとても有難い女性なんですけど、メジャーデビュー前後の椎名林檎ってそういう女性ですよね。そんな感じありますよね。いや違うのか、一応曲がりなりのおしゃれでもして出てくるのかな、ハイライトで傷めた喉に痰でも絡ませながら。

湘南ギャル

 中学校の三年間、私はずっと椎名林檎を聴いていた気がする。胸につかえた何かを取り去りたい時、大声で椎名林檎を歌った。大人っぽくてちょっとエッチな林檎ちゃんに、憧れる時もあった。ここを掘り下げようとすると恥ずかしくて脳がストッパーをかけるから、あんまり思い出せないけど。あんなに聴いていた椎名林檎だが、高校生くらいから徐々に聴かなくなり、大学生になってからはたぶん一度も聴いていない。嫌いになったわけじゃないけど、ろくでもない中学時代の自分を思い出さずに聴くことができなかったし、そんなことは思い出したくもなかった。そういう訳だから、この企画で無罪モラトリアムを聴かなくてはならないのを、密かにずっと恐れていた。結果から言うに、聴いて本当に良かった。椎名林檎は今も変わらず、むしろ昔よりもっとカッコよく見えた。楽器隊たちも凝ったことしてはいるんだけど、そんなの耳に入ってこないくらい、フロントが強い。注意して聴いてたって、気付いたらボーカルしか聴けていない。男性もこういう気持ちになるのかはわからないけど、私は堂々とした立ち振る舞いの女性を見ていると、本当に励まされるような気持ちになる。もしかしたらそんな気持ちで、中学生の私も椎名林檎を聴いていたのかもしれない。あの頃の自分と和解できるきざしを見た気がした。

しろみけさん

 「丸の内サディスティック」は元々英詞で、正式リリースに際して語感に沿うような日本語を埋めることによって完成したと聞いたことがある。私はあと2つ、同じ方式で完成した曲を知っている。そのどれもが素晴らしく散文的で、言葉の一つ一つが瑞々しい。
 このエピソードは、『無罪モラトリアム』の位置を考える上で、非常に象徴的なものであるように思える。この人は仮面をその都度切り替えるように、曲ごとに異なるキャラクターを提示してくる。そしていつだって、背後に張り付くように、歪な翻訳の影が伸びている。ここでの翻訳は、単なる言語間の橋渡しや英米のオルタナティブ・ロックの昇華などを飛び越えて、有り余るエネルギーを抱えた一人の人間との、情念を経由した対話をも可能にしてくれるものだ。『無罪モラトリアム』を聞いている間、それまで意識していた海の距離は消えて、眼前のシンガーと話す以外にできることはなくなる…ここまで書いて、自分が何を言いたいのかわからなくなってきた…。いや、間違ったことを言ってるわけじゃないはずだ。だって、今では洋楽をやりたい人よりも、椎名林檎になりたい人の方が多いわけだし。

談合坂

 音程を持たせたブッチブチに割れたドラムとか、バンドサウンドとエレクトロサウンドの重心差とか、一スタイルとして使い倒してもよさそうなことを何食わぬ顔でいちアプローチとしてやっていてすごい。聴く前には(おそらく世間の人々も抱いているであろう)椎名林檎らしいものが一本通ったアルバムを想定していたけど、いざ聴いてみたらこれというスタイルを規定させない多彩さを見せつけられてしまった。なによりその多彩さを全て自分のモノにしてしまっているのが恐ろしい。

 椎名林檎が以前なんかの音楽番組で「女の子の人生のサウンドトラックになるように」という心持ちで曲を書いてると言っていた。私は少なくとも女の子ではないので対象外なのかもしれないが、それでも中学生の頃にこのアルバムを狂ったように聴いていたのは自分の中のオルタナキッズと椎名林檎の中のオルタナキッズが固く握手をしたからだと思う。「正しい街」、「幸福論」、「歌舞伎町の女王」ではいかにもなディストーションギターやドラムがけたたましくなっていて、PJ HarveyやダイナソーJr.の延長線上の音楽として聴いていた。私は傑作アルバムとは「1曲目は客を振り回すように力強く」「2曲目でその流れをスムーズに核心へ連れていく」「3曲目はアーティストの代名詞」「4曲目でホームラン」「5曲目で少し静かに」「7曲目あたりで裏アンセム」「ラストの曲は作品屈指の歌もの」であると考えているが、この価値観を作ったのは「無罪モラトリアム」だ。

みせざき

 椎名林檎と言えば独自性で塗り固められたアーティストというイメージだったが、意外にもロック的なバイブス、気持ち良さというのが感じられるアーティストでもある事が分かった。勿論1stだからこそだとは思うが、90sのバンドが出す1stの疾走感と通ずる強さが感じられた。ただ疾走だけでなく多方面の影響を受け、様々な楽器を用いながら椎名林檎としての音・楽曲にしっかりまとめ上げられているのが素晴らしく、作品としての完成度の高さが感じれた。
 やはり一番感じるのは、勿論全部の曲では無いがコード進行の躍動感だった。通常のJ pop進行からの逸脱、まるでジェットコースターのような上り下り、ドラマチックさというのが特徴であり、後進のアーティストに多大な影響を与えている理由の一つなのだろう。

和田醉象

 懐かしいシリーズ第2弾。ただ個人的にこっちは懐メロ要素大きいかも。宇多田ヒカルは結構今ごと、今聴いても好きな感じあったけど、椎名林檎は家族の車でかかっていた懐メロ感が抜けない、残念ながら。
 そして思ったよりもギターポップ要素が大きいことに驚き仰け反った。車のスピーカーだとギターの音あまり聞こえなかったのよ、ボーカルのレンジがかなり広く聞こえて。
 この時代にこれがかなり評価されているの意外というか、10年後とかに出ても時代掻っ攫うくらいのインパクトがあるのに、と思ったけど、このアルバムが時代を作ったのか。じゃあ評価されて当たり前か。

渡田

 音の繊細さに関しては、前回のレビューまで聴いていた宇多田ヒカルやコーネリアス等には一歩譲る印象。それでも、垢抜けたイメージや完成された作品の印象をはっきりと受け取ることができた。
 こう思えたのは、音の繊細さ以上に、テーマの一貫性を強く感じたからだと思う。このアルバムのテーマにされるのは「東京」とか「モラトリアム」とか「不健全さ」とか、普段なら無意識のもとにしか感じられないものだけれど、曲を聴いている間はその存在を確かに感じる。自分の中に曖昧に残る学生時代とかの過去の感覚が、輪郭を持って浮かび上がってくる気がする。
 発される楽器の音、様々なエフェクト、独特の声色、そしてそれらの配置が聴き手にもたらす印象を精査したからこそ、こういった特別な感覚を呼び起こす作品になったのだと思う。

次回予告

次回は、ナンバーガール『SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT』を扱います。

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