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毛利元就〜家督相続時の混乱〜

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。前回に引き続き、毛利元就を書いていきます。よろしくお願いします。

家督相続時の尼子家の介入

これまでの元就の活躍をみて、山陰地方の大名、尼子経久が警戒を始めました。

尼子経久は、一代で下剋上を成し遂げた人物です。はじめは、京極家に仕え、後に下剋上を成し遂げた人物です。

尼子経久は、元就排除の動きを始めました。経久の意向を受けた彼の重臣、亀井秀綱が元就の家臣の坂広英と渡辺勝に働きかけを行います。彼らは、元就の異母弟、相合元綱の擁立をはかりました。

この2名は、幸松丸死去時も相合元綱を推しており、それが無理なら尼子家から養子を迎えて元就の家督相続を阻止しようとしていた家臣達です。つまり、反元就グループといったところです。

元就は、相合元綱とその一派を滅ぼすことを決意しました。彼らの存在が尼子家の介入と現在の安定を乱すことになると考えたのではないでしょうか。元就は、彼らの不穏な動きを察知し、先制攻撃を行い、彼らを滅ぼしたのです。

これにより、元就は、兄を若くして亡くしたのみならず、弟は自らの手で滅ぼすことになったのです。

中国地方の二大勢力について

毛利元就が家督を継いだ1523年の中国地方には、二大勢力が存在していました。大内家と尼子家です。大内家は、代々周防を地盤とした名門で、中国地方で大きな勢力を築いていました。一方の尼子家は、先に述べた尼子経久という人物が登場し、下剋上を成し遂げ、山陰地方に大きな勢力を築いていました。
この二大勢力に挟まれていたのが安芸国、そして毛利家だったのです。

粛清直後の元就

相合元綱とその一派を粛清は、さらなる事件を起こしています。坂一族と縁が深かった桂広澄という重臣が責任を感じ、切腹するという悲劇が起こっています。彼は、事件に直接的な関係が無かったとされています。さらに、桂広澄の長男の元澄が一族を集め、城に籠り自刃する動きを始めました。一歩間違えれば、内戦に繋がりかねない、危険な状況であったようです。
この時の元就が自ら説得にあたり、事態の沈静に努めたと言われています。

毛利元就というと謀将という言葉が私の中で強く、最前線で動いているというイメージが強くありませんでした。しかし、家督相続頃までの彼を見てみると最前線に立ち、自ら動いているように見られます。外には、大きな二大勢力に挟まれ、内には不穏な動きを抑え込み、安定させていく、元就は非常に難しい舵取りをしていたと考えられます。

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」, 株式会社新紀元社, 2010年9月
本郷 和人, 「戦国武将の解剖図鑑」, 株式会社エクスナレッジ, 2015年11月

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