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毛利元就〜地盤の確立〜

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。前回に引き続き、毛利元就を書いていきます。よろしくお願いします。

元就45歳の時、彼は安芸国の中心人物として認められ、一つの山を作り上げました。大内家、尼子家の二大勢力に挟まれながら、地盤を整えた状況です。しかし、まだ両家の強い影響を受けています。そうなると、この状況を脱し、自立したいと考えるのが自然です。そして、元就は、両家を超えるための地盤固めに動いていくのでした。

月山富田城の戦い

大内家の中において、吉田郡山城の戦いで撤退し、弱体化している尼子家を討伐しようという主張が陶隆房を中心になされていました。陶隆房は、大内家に歴代にわたって仕える重臣の出で、先の吉田郡山城の戦いでも援軍を率いて戦った武将です。対して、相良武任らを中心として慎重論を主張する勢力もありました。
その状況下において、1542年、大内家の当主、大内義隆は、陶隆房らの意見を採用し、尼子家へ侵攻します。

しかし、この戦いは、戦いが長期化したこと、そして安芸国の国人達が離反したことで大内軍の敗退に終ります。

そして、元就は大内家より殿軍を命じられました。殿軍は、退却時に最後まで残り、総大将や他の軍が無事撤退できるように追撃する敵と戦う役割です。尼子軍の追撃、そして大内軍敗退を聞いた土豪達が放棄し、元就はかなり危機的な状況となりました。殿軍をつとめる中、元就も追い詰められていきます。この危機的状況にで家臣の渡辺通が志願して身代わりとなり、討ち死にしました。彼は、元就の甲冑を着用して戦ったようです。この彼の決死の働きにより元就は、無事吉田郡山城まで帰還することができました。

彼の父は渡辺勝、元就の家督相続時に反乱を起こそうとして、粛清された人物です。元就は、彼に大変感謝しており、子孫を別格扱いにしました。江戸時代を通じて、毛利家では「歳首甲冑の儀」という儀式の役に渡辺通の子孫が代々つとめることを命じたと言われています。

このことは、元就の家臣を大事にする姿勢を表すとともに自分亡き後の毛利家において、当主や家臣の模範となる姿を示す狙いがあったと考えられます。

小早川家・吉川家の乗っ取り

月山富田城での敗北後も元就は、地盤固めに動いていきます。より自立していきたいと彼は、強く考えたのではないでしょうか。他家の戦いで自分が命を落としそうになったのです。自立への欲求が強くなったのではないでしょうか。

安芸国を見た時に強い勢力を持っていた勢力は、沿岸部で強い水軍をかかえる小早川家と内陸部の吉川家でした。

まず元就は小早川家に工作を仕掛けていきます。当時の小早川家は竹原小早川家と沼田小早川家に別れていました。まず、竹原小早川家に三男の隆景を養子に送り込みます。当主の興景の妻は元就の姪でした。興景は子がいないまま亡くなり、当主不在となった小早川家から養子を出して欲しいとの要請を受けました。元就は、要請に応え、自分の実子を竹原小早川家の当主とすることに成功しています。

その後、小早川本家にあたる沼田小早川家の当主、小早川正平が先に述べた月山富田城の戦いで討ち死にしてしまいます。後継の繁平は盲目であったため、隆景に沼田小早川家の当主も兼ねてもらおうという意見が出てきました。この一連の流れにも元就の工作もあったようです。結果的には、隆景が沼田・竹原の両家の当主になり、元就は小早川家の持つ水軍を動かすことができるようになったのです。

また、元就は、内陸部で強い勢力を持つ吉川家に目をつけます。当主の興経の妻は、元就の妹で義兄弟の関係でした。しかし、興経は、なかなかのしたたかもので、先の月山富田城での戦いでは、はじめ大内軍として戦っていましたが、尼子家に寝返り、敗退のきっかけを作った人物です。しかし、一族や重臣と対立があり、一枚岩とは言えない状況でした。元就は、内部工作を仕掛け、そして、反興経派からの要請を受け形で次男の元春を吉川家の当主とすることに成功します。

こうして、安芸国の有力な勢力を支配下に置き、元就は名実ともに安芸国を代表する存在となったのでした。

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男」, 株式会社新紀元社, 2010年9月
本郷 和人, 「戦国武将の解剖図鑑」, 株式会社エクスナレッジ, 2015年11月
童門 冬二,「毛利元就ー鬼神をも欺く知謀を持った中国の覇者」,株式会社PHP研究所,2009年3月


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