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ノボさんの青春と戦い「子規を詠むTERAKOYA(2022.9.10)

もし、正岡常規という青年が俳句や短歌に関心を持たなかったなら、わたしたちは松尾芭蕉さえ知ることがなかったかもしれない。

プレゼンターが親しみをこめて”ノボさん”と呼ぶ彼は、
幼名を升(のぼる)
正岡子規として知られるひとだ。

子規が探究した美と彼をとりまく友との物語。
泣かせのキチさん(本人は泣かせるつもりはないそうだが)ことキチエモンさんの語りをレポしたいと思う。


◆第一部 升さんの青春

『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』

もっとも有名な子規の句だが、「それでいいの?」と思っちゃうほど見たまんまの句である。

彼がめざしたのは”写実”。
「ありのままの情景を五七五の中に閉じ込めて永遠のものにしようとしたひと」とプレゼンターは表現する。

ところがこの俳句、ありのままではなく創作が入っている。
鐘が鳴っていたのは実は東大寺。
ちょっと創作しちゃう。それでいいってことらしい。

このプレゼンが終わる頃には、この俳句を美しいなとまでは思わなくても、「いい俳句だなー」と思えるようになるそう。
どんな物語が展開するのか楽しみだ。

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子規の青春は目まぐるしい。

「アシは太政大臣になる!」と意気込んで16歳で上京。

なのに野球に夢中になったり、哲学にのめり込むも自分より優秀な学生と出会い絶望したり、小説を書くため、向島の桜もちやに友人と3ヶ月も宿を借りたり。
親しい友人を”七変人”と呼び批評をしたといった記録も残っている。

自己評価高いノボさん(2段目:秋山真之、3段目:清水則遠)


好奇心旺盛で多くの仲間に囲まれ青春真っ只中のノボさん。
が、21歳で吐血、結核を発症する。

それから13年後、彼は34歳で一生を終える。

子規は短い生涯の中で、膨大な俳句、短歌を調べ分類し、俳句に対する新しい理論を構築。30歳の時には誰も踏み込まなかった業界に戰を仕掛ける。しかもたった一人で。


◆第二部 ノボさんの戦い
子規には大恩人といえる人物がいる。

新聞「日本」の社長 陸羯南(くがかつなん)。
彼が子規の才能を理解し自由に表現させなければ、俳人・正岡子規の活躍は100%なかった。

子規は当時最新のメディアであった新聞で俳句・短歌の革新に挑む。

切り込んだのは、あの有名な一句
『古池や 蛙飛び込む 水の音』

子規はこの句を「それ以上でもそれ以下でもなし!」と一喝。
けなしているのか?と思いきや「昔から変わらない静寂な景色の中に、蛙の飛び込む音という劇的な変化。それ以上語ることがあろうか」と絶賛した一言だった。

芭蕉を再評価することで、彼を神聖化する俳句界に一石を投じたのだ。

さらに子規は、それまで無名だった俳人を見出す。

芭蕉の
『五月雨を あつめて早し 最上川』
に対し、

『五月雨や 大河を前に 家二軒』
と詠った与謝蕪村だ。

子規に言わせると、芭蕉の”あつめて”は巧みがあっておもしろくない。
蕪村の方が”写実”という点から優れていることになるらしい。

30歳。
子規はついに禁忌に手をつける。

「歌よみに与うる書」
伝統ある短歌に対する超攻撃的コラムだ。

有名な短歌も「手本にするとはおおたわけ!」とこき下ろしたり、「小さきことを大きくいう嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え候う」と一刀両断。

歌道の皆さんは怒りで大炎上、コラムを読んだ一般の人たちは大盛り上がり。
抗議の手紙にも一つ一つ丁寧に反論をするノボさん。
彼の戦いは愛と情熱に満ち溢れたものだったと、わたしは思った。


◆第三部 六尺の世界
しかし、次第に病状は悪化。脊椎カリエスにより身体中に激痛が走り、寝たきりになる日も増えていく。

根岸の自宅から見える六尺の世界。
それがノボさんのすべてだった。

子規庵からの景色

子規晩年の随筆の一つ「墨汁一滴」には六尺の世界での日常が細やかに描かれている。

また「仰臥漫録」には食事の記録も。
朝 雑炊3杯、佃煮、梅干し、牛乳1合、菓子パン2個
昼 カツオの刺身、かゆ3椀、味噌汁、佃煮、梨2つ、ぶどう酒1杯
間食 団子4本、麦湯、塩せんべい・・・

健康かっ!?

妹の律に手伝わせつつ最後の最後まで筆を握っていたノボさん。
書いてはパタっと筆を落とし、また書くを繰り返す。

絶筆三句を残し、
明治35年9月19日午前1時
子規は34年の生涯を閉じる。

近所に子規の死を知らせるために外に出た弟子の高浜虚子。
月を見上げて句を詠んだ。

『子規逝くや 十七日の 月朝に』

その日は旧暦の17日。
十五夜の2日後、その日は”立ち待ちの月”という。
虚子は十七夜とすることで自分の思いを表現したかったのだろう。

子規は俳句・短歌を詠むときに、そこに具体的な情景が浮かばなければならぬと言った。

情景とは「心の動きを通して味わわれる、景色や場面」
子規のいう写実とは、事実を映し出すことではなく、目の前に広がる景色と心のうちを一致させることではないかと思った。

ありのままを楽しみ
己の役目を適しみ
去り際を愉しむ

病を客観的に見つめ、楽観的だったというノボさん
生涯すべてが青春だった。


◆エピローグ 親愛なる君へ
清水則遠
18歳で亡くなった子規の同郷の友人
子規が名付けた「七変人」のひとりでもある。

子規は彼の死に接し、病に気づけなかったことを悔やみ、遺族に則遠の名を残すことを自分の一生の目的にすると手紙を書いた。その長さ8メートル。

多くの人に迷惑をかけ、借金をし、懸命に看病する妹に文句を言っていたノボさん。困った人だけど友達思いで愛されたひと。

ノボさんみたいな生き方はできないけど、自由に生きるって、どんな状況でもできるんだと教えられた気がした。

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