<小説>白い猿⑤ ~前田慶次米沢日記~
五
きーっ!
ひときわ甲高い叫び声が上がった。
鳥がけたたましく飛び立ち、森全体に緊張が走っている。
吾妻山の奥深い谷底に、くくり罠が仕掛けられていた。芋や果物などの餌につられてきた獣の足を、頑丈な鉄の輪で捕らえる恐ろしい罠である。
その罠に、関白殿(白い猿)が掛かってしまった。
関白殿は必死で逃れようとするが、右後ろ足をがっしりと挟まれて身動きが取れない。
もがけばもがくほど罠は足に食い込んでくる。
「やったのう!」
「たまげた。本当に白い」
忍びたちは興奮を抑えきれない。
関白殿がどれだけ力を込めて噛んでも、鉄の罠はびくともしない。
「こりゃ、とんでもねえお宝だ」
「ああ、見世物にすりゃ、大した銭になるぜ」
三人の忍び、戸隠忍びの三郎太、根来の茂助、風魔の小吉が大きな籠を抱えて関白殿に近づいていった。
三人が抱えているのは蔓で編んだ頑丈な檻である。この中に関白殿を閉じ込めて連れ去るつもりのようだ。
頭領の猿丸は見張り役として少し離れた大きな岩の上にいた。
ーーうん?
猿丸が右手の崖の上に気配を感じた。次の瞬間、
ずどーん!
凄まじい爆烈音とともに、忍びたちが運んでいた籠が粉々に吹き飛んだ。
直撃を受けた三郎太は右手が吹き飛んだ。茂助や小吉も爆風を浴びて三間(約五・四メートル)も飛ばされ、岩に叩きつけられた。
まるで雷が直撃したような惨状に、頭領の猿丸も何が起きたか分からずに茫然としていた。
崖の上に慶次が立っていた。三十匁銃を手にして、鬼神のごとき形相で忍びたちの前に仁王立ちになった。
「山の神を穢す所業は断じて許さぬ!」
慶次が言い放つと同時に、五、六人の武士が走り出た。
白布高湯で鉄砲造りに当たる米沢藩鉄砲組頭と、配下の同心たちである。
「さすがは三十匁。一撃で三人も吹き飛ばすとは」
「いや、前田殿の腕前なればこそだ」
のちに「上杉の雷筒」と怖れられる三十匁の鉄砲の威力をまざまざと見せられて、同心たちの士気は上がった。
「奴らを捕らえよ!」
組頭の号令一下、同心たちは一斉に忍びたちの捕縛にかかった。三人の忍びは衝撃から立ち直れぬまま、たちまち捕らえられた。
しかし猿丸だけは、包囲の輪をするりとくぐって逃げてしまった。名前の通り素早い身のこなしで、軽々と木を伝って遠ざかってゆく。
「逃がすな!」
だーん! だーん!
同心たちが次々に火縄銃を放った。だが素早い動きの猿丸には当たらず、距離は広がる一方だった。
猿丸は森の中を南に向かっている。会津領に逃げ込むつもりのようだ。
同心の一人がなおも火縄銃を構えたが、すぐに銃口を下げてうなだれた。
「遠すぎる…」
距離にして百五十間(約二百七十メートル)も離れてしまった。もはや火縄銃の射程距離を越えていた。
そのとき慶次は背中に背負っていた細長い銃に火縄を付けた。
「やってみよう」
慶次は火蓋を切りじっくり狙いを定めた。猿丸はすでに二百間(約三百六十メートル)先まで遠ざかっている。
だーん!
三十匁とは比べものにならないほど静かな音である。しかし次の瞬間、猿丸の姿勢ががくっと崩れた。
「当たった!」
組頭が驚きの声をあげた。
慶次が撃ったのは狭間筒(はざまづつ)と呼ばれる特別な銃である。全長が五尺(約百五十センチ)ある、この時代の狙撃銃である。
同心たちが駆けつけると、猿丸はすでに息絶えていた。背中のほぼ真ん中を撃ち抜かれ、即死だった。
猿丸の懐からは三十匁の鉄砲玉が見つかった。白布の鉄砲場から盗み出したものであろう。
「もしこれが幕府に渡っていれば、上杉は息の根を止められたかもしれぬ」
のちに直江兼続が漏らした言葉も決して大袈裟ではなかった。
忍びたちを片付けたあと、慶次たちが近づくと「関白殿」は鋭い牙をむいて威嚇の声をあげた。
後ろ足は依然として罠に囚われたままだが、野生の本性をむき出しにして、目は激しい怒りに燃えている。
「大丈夫だ」
鉄砲組の兵士が懸命に――噛みつかれたり引っ搔かれながら――罠を外してやると、関白殿は足を引きずりながら森の中へ消えていった。
「大丈夫でしょうか」
組頭が心配そうに訊いた。
「わからぬ。生き延びてくれればよいが」
こればかりは慶次でも判別のしようがなかった。 (つづく)
★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、 fladdictさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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