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21世紀の「見る権利 vs 見られる権利」

ARやMR、VTuberのような、視覚情報を上書きするテクノロジーを見ていて、疑問に思うことがある。

将来、ARやMR、あるいはVTuberのテクノロジーが進歩したとき、人間にとって「見る権利」と「見られる権利」が衝突するではないか。そのとき何がおき、どちらが優先されるのだろうか。


見られる側が、権利をもつ世界

まず、とっかかりとしてVTuber(ヴァーチャルユーチューバー)を例にとるとわかりやすい。VTuberは、「私が自由に外見を決め、あなたに見せれる」テクノロジーだ。VTuberを用いることで、人は自分の外見を自由に定義できるようになった。

現在の倫理観では、Aさんの外見を決めるのはAさんである。VTuberもこの価値観に従っている。価値観は従来のままで、「私が定義できる私のカスタマイズ性」が拡張されたのがVTuberだ。観測者は、発信者の定義した姿を観測することになる。

ところが、ARやVRといったテクノロジーが進歩するにつれ、この見る者と見られる者の関係は奇妙な崩壊をみせる。

見る側が、権利をもつ世界

ARが進化した世界を考えてみよう。あらゆるものが網膜上のARで視覚マッピングされた数十年後の未来。このような世界では、「見る側が、私の姿を自由に変えることができる」ようになる。AR世界では、観測者が自分の視覚を調整して、現実世界をカスタマイズできるからだ。

この世界では、Aさんの外見の決定権は観測者であるBさんに移動する。

Aさんがどんなにオシャレをして外見を弄ろうと、Aさんには自己の外見を決定する権利はもはや存在しない。「どう見るか」を定義するのは、受け手のBさんに委ねられるようになる。


自由にモノを見れる世界での倫理的な問題

見られる側が自分をカスタマイズでき、見る側がも対象をカスタマイズできるようになると、当然のように両者の欲求と権利は衝突する。

受け手が自由に見ることので世界の例として、未来の職場を考えてみよう。

あなたは嫌いな上司がいる。あなたは嫌いな上司の外見を、ARで「たぬきの置物」として上書きすることができる。自分だけこっそり見ているので、誰にもバレない。ささやかなストレス解消法である。

現在の倫理観では、これは問題ないように思える。ちょっと暗い趣味かもしれないが…私的な視点や世界観は、思想・内心の自由の一種として保証されるだろう。

では、こんな例は許容できるだろうか?

もし誰かが、自分の視覚において社員全員をARで美少女に置き換えたら…それは、なにかの自由や権利を侵害するのだろうか? もっと推し進めて、首から下をヌードデータと差し替えたら? それは規制の対象となるのだろうか。

直感的には、非常に倫理的に問題があるように思える。だが現代の世界観では、これもパーソナルな視界である限り、思想・内心の自由の一種として保証されてしまうように思える。

ARやVRが高度に進化した世界では、このような「見る側の欲求」と「みられる側の欲求」が、倫理を挟んで矛盾するようになってしまう。自分の視界において、嫌いな人物をモザイクに差し替える行為は、イジメや差別に当たるのだろうか? 現代の人間は答えを持っていない。


観測者が優位の世界で起きること

見る側が最終決定をする以上、観測者はつねに発信者よりも優位にたつ。つまり、未来は

見たいもの > 見せたいもの

となる可能性が高い。

このような世界では、以下の特徴が顕著になる(現在でもそうではあるが、より極端になる)。

・自分の姿や言動を、そのまま見てもらえることが保証できない
・意図通り見てもらえているか、外部から観測できない


こうなってくると、ファッションやオシャレの意味は半減する。外見や仕草は社会的なコミュニケーションとしての機能を失い、自己追求や自己満足の要素が強くなってくる。

極論、裸で応対しても、相手のARの「迷惑視覚フィルター」が上書きしてくれる。Aがどんなに悪意のある格好をしようが、観測者のBがフィルターで違うものに置き換えて仕舞えば、Aの悪意ある格好は観測されなくなる。


裸眼でみることの意味

最後に、裸眼の意味について。非常に成熟したAR空間では、「裸眼でみることが失礼となるだろう。

イケメンの人を前にして、ARをオフにして素顔を見ようとする行為はセクハラになるだろう。相手の「こう見せたい」という権利を侵害するからだ。同様に、相手のARをオフにして、相手に自分の素顔を強制的に見せようとする行為もセクハラとなるだろう。

高度に成熟したAR空間では、裸眼で現実をみることが、裸を見ること / 見せることと限りなく近くなる。


…というような事を考えて、アベーマTVで質問された「50年後の生活はどうなっているか」に対して、「多層現実(多重現実)」と答えました。

高度に成熟したAR空間では、同じくパブリック空間にいつつも、全員が「自分の見たいもの」で構成された、擬似レイヤーで生活するようになる。つまり並行世界、多重世界となる。異なった世界同士の翻訳は、ソフトウェアが辻褄をあわせるだろう。

やってること自体は、スマホのダークモードの延長にすぎないのだけど…倫理観も生活スタイルも、根底から変わってしまうかもと思った。

いただいたサポートは、コロナでオフィスいけてないので、コロナあけにnoteチームにピザおごったり、サービス設計の参考書籍代にします。