<小説>白い猿④ ~前田慶次米沢日記~
四
馬口労町(ばくろうちょう)は米沢城の南に位置する町人町である。主に牛馬の仲買人が暮らし、多くの厩(うまや)が建っている。近くには馬場もある。
猿回しの一座はこの町の民家に寝泊まりして米沢での興行を続けていた。
城下には旅籠もあるが、一座は猿を連れているために泊まることができない。そこで一軒の民家を借りて宿代わりにしている。
猿回しは古来、正月に禁裏や伊勢神宮で奉納された神事であったと伝えられる。猿が馬の疫病を癒やすと信じられていたことが由来で、平安末期の「梁塵秘抄」には、厩の隅で猿を飼っていたと記されている。
やがて猿を連れて祈祷(きとう)する者が現れた。それが猿ひきで、その風習が廃れたため、猿に芸をさせる猿回しに転じたと考えられている。
この馬口労町を根城にする猿回しの一座こそが、会津藩が雇った流れ忍びの仮の姿である。
頭領の猿丸は丹波村雲党(たんばむらくもとう)の出、ほかに戸隠忍びの三郎太や根来の茂助、風魔の小吉と出自はさまざまだ。
一座にはほかに治兵衛という老人もいるが、この男はもっぱら猿の世話係で忍びではない。
一座は米沢城下を巡って演目を披露しながら、上杉家の様子を窺ってきた。そこで得た情報をもとに、白布に潜入して鉄砲製造の動かぬ証拠をつかむつもりのようだ。
猿丸は会津藩家老に召し出された際、鍛冶場の破壊工作も提案した。そうなれば報酬もけた違いにはね上がるからである。
しかし家老は「それには及ばぬ。そなたらは調べるだけでよい」と取り合わなかった。へたをすれば上杉との戦になりかねず、そんな危険は冒せないからだ。
会津蒲生氏にとっては上杉に「謀反の兆しあり!」の動かぬ証拠さえ掴めれば十分である。幕府に注進に及べば、徳川将軍は大喜びで上杉家を取り潰すだろう。
あわよくば大金をせしめようと企んでいた猿丸の目論見は、あえなくついえた。探索だけでは大した報酬は出ないはずだ。
そんなとき米沢城下で耳寄りな話を聞いた。白い猿が山奥に暮らしているという。
「麓の民からは山の神と崇められているようだ」
「見世物にすればさぞ評判を呼ぶであろうな」
忍びたちはがぜん色めき立った。
「余計なことは考えるな。我らの勤めは上杉の鉄砲場を探ることじゃ」
猿丸が叱った。
だが、すぐに「そんなしけた勤めは適当にやればよい」と横から声が飛んだ。口にしたのは根来の茂助という中年の忍びである。
「探索の報酬などたかが知れておる。褒美に珍しいものをいただいてもよかろう」
「そうじゃ、そうじゃ」
周りの忍びたちもすぐに茂助に賛同した。
本来ならば、忍びの世界では頭領の命令は絶対である。だが、戦国時代が 終わると忍びの多くは仕事を失い、糊口をしのぐためにそれぞれ職を探さなければならなくなった。
とくに関ヶ原の合戦で敗れた西軍に仕えていた忍び集団は、雇い主が滅んで散り散りになった。忍びの働き口はごく稀にしかなく、実態は野盗とさほど変わらない。
この猿丸一座も、そうした連中の寄せ集め集団である。統率が取れないのも無理はなかった。
「ならばその猿を生け捕りにせよ。万一しくじったら殺して毛皮だけでも持ち帰ればよい」
「お頭も話がわかるようになってきたな」
「罠を忘れるなよ」
「任せておけ」
忍びたちの目にぎらぎらした欲望が浮かび上がった。
「気になる」
堂森善光寺の庵に戻ったその夜、慶次はなかなか寝付けなかった。
これは理屈ではない。獣の直感に似て、幾多の死線をくぐり抜けてきた武将の本能が危機を告げていた。
城下で猿回しの一座を見て、忍びであることはすぐに見抜いた。
だがすぐに問い質したり捕えようとは考えなかった。町民たちが笑いころげる様を見て、楽しみを奪ってまでやるのも野暮だと考えたからである。
しかしすぐに後悔し、やがてそれは胸騒ぎへと変わった。
ーー猿で飯を食っている者ならば、白い猿に興味を持たぬ筈がない。
次の日、慶次はまだ夜も明けきらないうちに出立し、ふたたび白布高湯へと向かった。 (つづく)
★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、 masuno_shotaさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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