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【主婦勉!】神社のあれこれについて知りたい~天神編~

八幡神と稲荷神を調べただけで 
正直もうクタクタです笑
だってすぐ仏と習合しちゃうんだもん。
調べることが多すぎ。

だけどまだまだ神様はいる。
せめて熊野、諏訪、出雲、天神、神宮、
できれば日吉、住吉あたりまでは調べたい。

というわけで、次は天神様を調べてみる。

【天満宮】
祭神:菅原道真
総本山:大宰府天満宮

天神を祀る神社は
天満神社、天満宮、菅原神社などと
呼ばれており、
祭神はずばり菅原道真だ。

菅原道真をものすごく簡単に紹介すると、
平安時代に活躍した貴族で
とにかくめちゃくちゃ頭が良かった。 

貴族とはいえ中流の学者の家柄なので
本来なら中枢で出世とかは
あまり望めないはずなのに
とにかく優秀でどんどん出世する。
異例の大抜擢なんかもされちゃうから
当然他の上流凡人貴族たちからは妬まれて、
嫌がらせみたいなのも受ける。

で、妬まれるのわかってるから、
出世を辞退したりもするんだけど、
とにかく優秀なので天皇が許さない。
(この時は宇多天皇)

しょうがなく(かどうかは知らんけど)
任務を遂行するとやっぱり
めちゃくちゃ出来ちゃう。
だからますます信用されちゃう。
そのうち娘が天皇家に嫁いだりして
ますます関係が深くなっていく。

そしてついには右大臣にまでのぼりつめる。
これは太政大臣、左大臣に次ぐ地位で
太政大臣はいない時もあったらしいので、
実質ナンバー2みたいな人ですね。

だけど、
これも道真の家格には不釣り合いな
本来あるまじき大出世で、
彼より良家の凡人貴族からは
嫉妬と誹謗中傷の嵐!
なのでこれも何度も辞退するけど悉く却下。

そしてついにその時がやってくる。
道真は
左大臣の藤原時平に謀られて、
弟子だった藤原菅根にも裏切られ、
哀しいかな、
その讒言を信じた醍醐天皇により
太宰府(福岡の地方行政機関)に左遷されるのだ。
子供たちは流刑。

しかも左遷といっても、
左遷先ではお給料無し、従者も無し、
そして政務にあたることも禁止の、
本当に罪人のような扱いだったらしい。
ひどい話だ...

そして左遷の2年後に
失意のうちに亡くなる。

さぁさぁ、話はここからだ。
まず、道真の左遷のきっかけをつくった
藤原定国が41歳で急死、
次いで道真を裏切った弟子、
藤原菅根が落雷で死亡。
その翌年、左遷の黒幕である
藤原時平が39歳という若さで急死。
4年後にはもう一人の黒幕とされている
右大臣源光が狩の最中に泥沼で溺死。

並行してこの時代、
長雨、干ばつ、伝染病、洪水、大火など
次々と災害が起きて、
やがてある噂が広がり始める。

「これって...道真さんの祟りじゃね?」

その後、
醍醐天皇の息子も
二十歳前後の若さで逝去、
その後時平の長女が産んだ皇太孫も
幼くして亡くなり、

流石にまずいと思った天皇は
今更ながらに
道真の左遷を命じた勅令を破棄し
地位も右大臣に戻した上、
正二位という高い位を贈って慰労に努める。

しかしそんなもんでは
道真パイセンの怒りは収まらない。
オラオラ、こちとら激おこじゃい!
まだまだやったるわー!
この恨み晴らさでおくべきかー!
とはもちろん言わない。
けど祟る。

極め付けとして
平安京内裏の御所の清涼殿という、
天皇が政務を執るような
御所の中枢的場所に雷が落ち、
道真の左遷に関わっていたとされる
2名が亡くなり(うち、1人は雷直撃)
さらなる死者もという悲惨な事故が起きる。

あまりの悲惨さに
完全にビビってしまった朝廷は
流罪にしていた道真の子供たちを
京に呼び戻したりして
なんとか道真の怒りを収めようとするが、
その落雷事故の現場を
見てしまったんじゃないかとも言われている
醍醐天皇はついに体調を崩し、
皇位を次に譲ってそのまま崩御する。
事故からたった3ヶ月後のことだ。  

これはいよいよもうマジで
道真さんの祟りだと確信した朝廷は、
その霊よ鎮まれということで、
京都に北野天満宮を建立し、
道真を雷の神、つまり「天神」として 
祀ったのだ。

そして最終的に道真は
太政大臣という、
朝廷最高職を追贈され、
完全に汚名をそそいで復権、
どころか最高の名誉を手にしたのだ。
って、亡くなってからもらっても
という気もしないではないですが、
まぁ祟ってみるもんですね。

ちなみに道真は
こういう経緯を経て天神となったけれど、
実は天神様は昔から別にいて、
道真も死後しばらくは
"天満大自在天神"として祀られていた。

ということで、
もともとは天神様と道真は別物だったのが、
例の落雷事故以降たぶん、
"天"関係的なとこで良い感じでまた
習合しちゃったんだと思う。

そんで、もともと道真が
"それ"として祀られていた"大自在天"というのは
ヒンズー教のシヴァ神のことで、
破壊と再生の神として有名ですな。
最高神の一人とされている。

本来の道真の人格としては
特に破壊と再生みたいな荒々しい感じでは
無かったと勝手に推察するんだが、
まぁ祟り神になってから(違うんだろうけど)の
彼の所業は完全に
”破壊と再生”のそれなんで、
習合する神として適任...だったんでしょうね。
よくわからない、素人推理です。

で、このシヴァ神は
白い牛に乗った姿で表される。

はい、出ました牛。
道真といえば、牛ですね。
太宰府天満宮にも北野天満宮にも
御神牛の像があり
みんなが撫でるのでピカピカになっている。

あれは、道真が生まれた年が
乙丑(きのとうし)生まれだったとか、
亡くなった日が丑の日だったとか、
亡くなった後、
彼の亡骸を乗せた牛車の牛が
ある地点から動かなくなり
そこに道真を埋葬したからだとか、
(そこが太宰府天満宮になる)

いろいろと
道真公と牛にまつわる話が
あるからなんだが、

全体的にふわっとこの辺りが
また全部うまい具合に結びついて
結果牛、ってことになったんじゃないかと
これも勝手に推察。 

また道真は
はじめは天神として祀られていたが、
突出して学問に秀でていた点や
数々の業績が改めて評価され、
今や学問の神様という側面の方が
強くなっている。

わらべうた「とおりゃんせ」の歌詞で
"天神さまの細道じゃ"というのがあるが
特に江戸時代くらいから
"学問の神様"として
寺子屋などで盛んに信仰されたらしい。

「とおりゃんせ」も
江戸時代頃に作られた曲らしいので、
"この子の7つのお祝いに〜"などと
寺子屋に通ってそうな
小さい子のことを歌われると、
謎多きこの「とおりゃんせ」の裏側が
少し透けて見えてくるようにも思える。
七五三のお目出度い日に何が起きたのか…!!

また天気は農業に直結するので
天神=農耕の神様になったり、
たぶん海難系も天気と直結するから、 
そういう部分でも
信仰されるようになったようだ。

ちなみに
福井や富山などの北陸地方では
長男が誕生すると、それ以降の正月に
床の間に天神像を飾る風習があるそうだ。

これは幕末の「四賢侯」の一人と謳われた
福井藩16代藩主松平春嶽が
領民に天神像を飾るよう推奨し、
それを富山の薬売りが広めた、
なーんていう話があるらしい。

また石川県にも似たような風習が
かつてはあったらしく、
これは加賀藩藩主の前田家が
もともと菅原の出を
称していたからだそうで、
なのでこの地域は天満宮が多いんだそうだ。

前田家の家紋は梅系なんだが、
梅といえば、あゝまたこれ太宰府なわけで、
なるほどそういう流れもあるんだなと、
歴ヲタとしてはまた胸が熱くなるわけです。
何でも繋がってるんだなぁ…

もひとつ全然関係ないけど
日本三大怨霊というと、 
菅原道真、崇徳上皇、平将門の御三方ですね。

最後にもひとつ、
6月26日は雷記念日なんだそうですが、
これは例の清涼殿雷事件が起きた日に
ちなむんだそうで、
もうサラダ記念日のような軽やかさで
記念しちゃってます。 

という訳で天神は終わり。
つぎは…どこにしようかな。

というか出雲や諏訪、熊野、伊勢、
どれも日本神話が複雑で、
諏訪に至ってはその後武田信玄とかまで
繋がってったりするから
今まで以上に沼なのではと慄いている。
まぁでも調べ始めたからには頑張ろう…

※あくまで何者でもない素人主婦の
ちょい調べですので、
間違っているところもあると思います。
ざっとこんな感じかな程度でお楽しみください。