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【主婦勉!】浮世絵を知りたい~黎明期②~

いやー、しかしアッという間に年末だぬ。

毎年実家に帰省して、
おせち作って初詣してという
当たり前だったお正月が崩れ去り、
10年ぶりくらいに自宅で
この時期を過ごすことになった。

でも正直何をしていいかがわからない。
おせち?つくる?んー。
息子はきんとんくらいしか食べないしな…
初詣?んー。自粛かな…

というわけで
他に行くところもないので
毎日毎日近所の公園で、
下手すりゃ1日朝夕2公園、
息子の木登りやらボール遊びやら、
自転車乗り回す姿を見ているうちに
激動の2020年が終わりそうです。

さぁさぁ、
では黎明期の偉人第2弾です。

・宮川長春

みやがわちょうしゅん。
1682年生まれ、1752年没なので、
懐月堂安度の生没年が正しければ、
だいたい同時期に活躍した絵師。

彼も安度と同じで、肉筆画専門、
版画はやらなかったようだ。

肉筆画しかやらないとうことは
つまりどういうことかというと、

版画は廉価な普及品として
幅広く手にしてもらうチャンスがあるけれど、

肉筆画となると1点ものにならざるを得ず、
そういった意味で、
当時の狭い範囲、
スノッブ階級あたりでは名を残しても、

その名声を後世まで広く伝える、
という点では、
相当な腕もしくは代表作がないと
やはり難しかったのかもと思う。

愛知出身で、
はじめは狩野派や土佐派に学び、
師宣や懐月堂派の影響も受け、
とにかく良いものは盗む的な(良い意味で)
勤勉家だったのではと推察する。
とにかく美人画が素晴らしい。
この立ち方とかは懐月堂派の影響を感じる。

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その絵は海外の美術館でも多く所蔵されていて、
外国人からの人気も高かったと思われる。

彼が、
当時の活躍と著名度に比べて
今現在あまり知られていないことは、
不遇の晩年を過ごしたこととも
関係しているかもしれない。

亡くなる2年前、1750年に
日光東照宮の壁画修復を担当?していた
幕府の御用絵師 狩野春賀に招かれて
日光の彩色修理を手伝ったものの、
春賀は約束の報酬を長春に支払わなかった。
春賀がそのお金を着服していたという話もある。

そこで長春は春賀の屋敷に赴き督促するも
口論になり、乱闘へと発展。
長春はボコボコにされて、縄で縛って
ゴミ置き場に放置されたらしい。
もうめちゃくちゃだな...
おじいちゃんでしょ…

で、なかなか帰ってこない長春を心配した
彼の息子が、ボコボコにされた父親を発見し
速攻で激おこカムチャッカファイアー!

一度長春を連れ帰った後、
深夜に春賀邸に乗り込み、
なんと春賀とその門人3〜4人をぶっ殺し、
その後自害したとも死罪になったとも
言われている。
春賀家は喧嘩両成敗により、断絶。

一方宮川派はその後、
門下の中でも特に秀でていた春水が
勝宮川を名乗り活躍、
またその弟子である春章が
勝川を名乗り、
のちの勝川派の祖となり、
その春章の門下になったのが、
勝川春朗、のちの葛飾北斎と、
名を変えながらも脈々と
浮世絵界の重要派閥として
その名を残していくのである。


・奥村政信

1685年 徳川綱吉により
生類憐れみの令が発令された翌年に
生を受けたのがこの奥村政信だ。

彼の最大の特徴は、
50年ほどにわたる浮世絵師人生において、
多色摺りになる錦絵の誕生までに、
黒摺絵、丹絵、紅絵、漆絵、紅摺絵など、
あらゆるジャンルの浮世絵版画を
描いていることだ。 

一つずつ簡単に説明すると、

・黒摺絵
墨一色で摺られた絵
浮世絵技法の最も基本的な形式

黒摺絵

・丹絵
黒摺絵に、丹を主として緑、黄、藍などの
簡単な色を加えて筆で彩色した絵。
硫黄と硝石を焼いて丹を作っていた。

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※『市川團十郎の竹抜き吾郎』鳥居清倍

・紅絵
丹絵から発展した様式。
紅花の花弁から作られた鮮紅色の絵具で
丹よりも控えめで大人しい色合いが特徴。
丹に比べて安価でたちまち広まった。

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・漆絵
紅絵の髪や帯などの黒い部分に
膠を混ぜた墨を用いて
漆のようなツヤのある効果を出したもの。

漆絵1

・紅摺絵
それまで筆彩版画
(黒摺版画に筆で彩色したもの)と違い、
初期の色摺版画とも言うべき様式。
「見当」の発明により、
色ズレの調整が可能になり、
はじめは黒の他、紅、緑の2色だったが
次第に5〜6色まで増えた。
これが発展し後に錦絵の誕生に繋がる。

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彼は浮世絵師であると同時に
版元(今でいう出版社的なもの)でもある
というかなり特殊な才能の持ち主で、
それゆえこのように
ある種自分の才能を実験台に
さまざまな新技術に
チャレンジし得たのかなと思ったり。

また"柱絵"という新たな絵のスタイル、
浮世絵の楽しみ方を考案したことも
彼を語る上で大事なトピックだろう。

昔好きなアイドルのポスターを
天井に貼って寝る前に眺めては
ニヤニヤしていた青春時代を
思い出すけれど、

たぶん、美人画とか役者絵とかも
柱に貼って楽しんでね、
的な感じだったんじゃないかな。
今も昔も人の考えることって一緒だな笑

柱絵の登場は、
絵が、それまでの"教養のため"などという
堅苦しい域をかろやかに飛び越えて、
完全なる娯楽の枠にスポッ!と、
気持ちよくハマった瞬間だったんじゃないかな。
特に庶民にとっては。

そしてそれは当時としては
かなり画期的なことだったんじゃないかと
想像する。

というわけで、
後世に類稀なる才人を多く輩出した
その祖である宮川長春と、

絵師であり版元であり、
あらゆる技術革新の最先端に立ちあっていた
稀有なアイデアマン奥村政信の2人を
紹介したところで
ついに次回からフルカラーの時代到来、
鈴木春信をご紹介する。

※あくまで何者でもないただの主婦が
趣味程度で調べた話なので
間違えていることもあると思います。
あしからず!