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戦闘服がいらなくなっても

「洋服は日々を生き抜くための戦闘服」という言葉を、昔から色んな人が唱えている。
そして自分自身も、それを体感したことが何度もある。

自己肯定感が地の底で、一生目立たないように生きてようと思っていた自分が、生まれて初めて全身パステルフリフリの洋服に身を包んだときの感覚は忘れられない。

鏡に映る自分はまるで別人だった。

実像とべったりくっついた皮膚や顔や髪までも、フリフリを身に纏う可愛い別の誰かのものになって、体が自分から離れていく。
それはとても自由な感覚だった。

洋服は武装、というのはまさにこういうことなんだと思った。

好みが変わっても、洋服は私にとって最強の武装だった。

生身の自分ではとても行けない場所にも、武装して別の誰かになれば、楽々行けてしまうのだ。

もっと強く、もっと可愛く、もっと個性的に。私の武装は進化を遂げていった。


けどあるとき、カスタムにカスタムを重ねた最強の武装を重たく感じるようになった。

冷静に考えれば当たり前のこと、武装は本来不自由で重いのだから。

生身で戦えない凡庸な身体と癒着して、重さを感じなかっただけなのだから。

最強の体を失って、私はもう動けないのかと不安になった。
でも後に分かった。これは、痛覚が戻ってきた証拠だった。

あの子に預けた皮膚も顔も髪も全部、私のものだったんだと分かり始めた。

「もうあなたに戦闘服はいらないんじゃない?」というあの子からのお告げで、私は今までになく身軽で自由になった。

自由って怖いんだ、不安なんだ。だからなるべく傷付かないようにあの子を通して生きてたんだ。


自由に生きるために戦闘服を作った。

その中に入って見てきた全てを、今度は生身の自分が体現していく。

この不安なワクワクは、あの日別人になって初めて街を歩いたときの気持ちに似ている。

不安定な人や欠けてる人は魅力的に映る。
未熟で無自覚な少年少女が美しいのもきっとそう。満たされていない余白は人の想像力を掻き立てるし、欠けた断面はいつの時代も鋭利に光って暗闇を刺す。

だから私はなぜか、満たされるたびに自分自身の魅力が減っていくような、光を失っていくような、歪に矛盾した罪悪感のようなものを感じていた。

満たされてしまえば、戦闘服を作れなければ、もう服を作る資格はないのか?そう悩んだときもあった。

だけど今なら断言できる。
私達はちゃんと"大丈夫"になるべきだ。

実像を守るために虚像の姿で戦ってきたのなら、虚像が消えて実像だけになっても自分を愛してあげられることが本当の勝ちだ。

自分の皮膚を、顔を、髪を、すべて愛して愛して楽しくたくましく生き延びてやる。

もっとまあるく、やわらかい光になって、すべてを内包できるくらい強くなってやる。

この凡庸な身体を優しく包み込むための洋服が、これから私が作るべき未来の戦闘服だ。

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これは洋服作りに対する今の気持ちをまとめた文章です。

30歳を超えた頃から、昔よりも圧倒的に"大丈夫"な日が増えて、それは少女の私が遠ざかっていくことなんだと寂しく思う時がありました。

そんなとき、3年前に下書きしたまま放置されてたこの文章を見つけました。↓

欠けまくった精神的少女の私が武装を纏って強くなるまでの物語。

今とはまるで真逆に思えるこの物語が、あれ?と思うほど今の心境にシンクロしていくのが不思議で、なんだか嬉しくなりました。

一人じゃ立てない私を支えていた武装姿のあの子が、いつの間にか私の一部となって、もっと自由になっていいよと背中を押してくれている気がしたからです。

強く生きるために武装した姿も、武装を脱いだ丸腰の姿も、全部自分だったと肯定できたおかげで、より一層世界が愛しいと感じられるようになりました。

だから今、とても人に会いたいし旅をしたい。
誰かに着てもらえる服を作りたい。

自分を少し認められるようになったら心に余裕が出来て、人のこともっと知りたいなって思うようになりました。

分かったような気になってるだけで、まだまだ愛しいと思うものは想像以上にあるのかもしれない。なんか無性にそんな気がしています。

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