資格試験という閉鎖社会
私がかつて受験した資格試験の勉強をしている人を見かけると、声を掛けたい衝動に駆られる。何年も時間をかけて勉強し、資格のための学校にも通い、勉強の過程で助け合える友人も大勢作り、そして今の生活の基盤となっている資格だ。
どうやって声を掛けても鬱陶しいだろうなと思うので、実際に声はかけないけれど。
それでも、自分も同志であることをどうにかして伝えたいと勝手な仲間意識を持ってしまう。
かつて受験時代の私は、電車で資格試験の教材を読んでいる人を見かけ、いてもたってもいられなくて手持ちの同じ教材を開き、その人の方をちらちらと見てしまったことがある。今思うとだから何?という感じではあるが。
でも、いざ教材を開く受験生を目にした職場帰りの私が持っているのは、機密情報の詰まったパソコンと、試験とは全く関係ない本だけ。私も受験生であったことなど、この人は知る由もないし、伝える術も失ってしまった。資格を取った後の方が、自分も資格の勉強をしたのだということを示唆しにくくなってしまうのだ。
資格試験は、スタートラインに立つためのものにすぎないという言説はよく聞く。確かに、資格をとっていることが仕事の大前提なので、資格を有していることは自分の能力の証明にも個性にも何にもならない。資格試験の為に必死に覚えた知識も、あれから一度も使っていないし、使う予定もないようなものはたくさんある。もちろん、勉強の過程で理解力や暗記力や思考力や忍耐力などが鍛えられる側面はあると思うし、資格の勉強をした時間が無駄になるわけではない。しかし、試験に合格してからは、あのとき本当に狭くて特殊で社会から断絶された環境にいたんだな、ということを実感する。
受験生時代の私は、朝起きて学校に行き、試験に向けた授業を受ける。そこで出会う人々は資格の勉強をしている人達ばかり。もちろん試験に関係ない話もたくさんしたけれど、勉強や試験や将来に関する話をしない日はない。空いた時間には勉強をする。友達と一緒に勉強をして、問題を解きあったり教え合ったりすることもある。試験が近付くにつれ、友人と一緒に勉強をする時間が増え、それが息抜きになったりする。友人グループができたり、恋人ができたり、派閥ができたりという人間模様も、この狭い環境の中で繰り広げられる。
勉強しかしていなかったわけではないし、資格と関係のない友人との付き合いも続けていた。しかし、デフォルトの環境は上記の環境であった。「勉強しない日」はあれど、毎日が「勉強をすることが望ましい日」であり、遊ぶ時も多少の罪悪感を感じていた。
試験を経て、そのような環境から解放された。働いてみても結局まわりは同じような環境にいた人ばかりなので人間関係は大きく変化しないし、狭い世界にいることは変わらない。引き続き勉強することはたくさんあるし、仕事での時間の拘束もある。しかし、それでも試験を経て新しいステップに進んだのだという実感がある。
机に向かって行う勉強は、たとえ難問を解けたところで誰かの役に立つ事はないし、当たり前の知識を知らなくても自分が恥ずかしいだけで誰にも迷惑はかからない。しかし、これが仕事になると、自分の取り組み一つで相手の役に立つ事もあれば、取り返しのつかない損害を与えてしまうこともある。また、狭い業界とはいえ新しい人との出会いは多いし、知っておくべきことにもきりがないため、自分がいままでいかに狭い範囲の勉強だけを行って、物事を知った気になっていたかと思い知らされる。
仕事について考えなきゃいけないことはたくさんあるけれど、やはり勉強を経て新しいステップに進めて良かったと思うし、同時にあの頃の環境はなんだったんだろう、私はあの頃より少しだけ遠い所に来てしまったのだろう、という寂しさも感じる。
資格試験の延長線上にある仕事だから、普段あまり自分自身の変化を感じる事はないけれど、たまに勉強中の学生に会ったり、今回の電車の様に一方的に見かけたりすると、やはりあのときの自分とは変わってしまったな、と思い知らされる。
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