他人を励ませるような人に
こんにちは。
エンカレッジです。
最初に簡単に自己紹介をしたいと思います。
エンカレッジとは、私の名前の励(れい)
↓
人を励ます
からとったものです。
これは母が考えて命名してくれました。
小学校の頃に聞いた以来ですが、
励と名前をつけた意味は2つあって
1つ目は
れい(Ray)、という発音は
日本人だけではなく、海外の人も呼びやすいといことから、
『海外で活躍する人間』
という願いがこもっているそうです。
すごい発想だと思います。
2つ目は
将来わたしが、『悩んでいる人や困っている人を励ます人間』になってほしいとの意味がこもっているそうです。
これは今でも誇りに思っていますし、この名前をつけてくれた母にはとても感謝しています。
わたしは4人兄弟の長男ですが、
下の妹、弟2人もけっこう変わった名前です。
わたしの幼児期はとても愛情を注がれて育てられたと行っても過言ではないです。
その理由として、第一子として生まれたので、
基本的に中学生ぐらいまでは
ほしい物はなんでも買ってもらっていました。
高校になり物に価値はないと思うようになり物欲が全くなくなりました。
それから物よりも、『人の心や人の考え方』の方が価値がよっぽどあると考えるようになり、心理学や脳科学などに興味を持つようになります。
少し遡ってわたしの幼稚園の記憶は週に2回のピアノの個人レッスンと集団レッスンです。ほんとに当時は水曜日と土曜日が地獄でした…
3才の頃から母に無理やり習わされていたのです…
これが小学校高学年まで続きます。
しかし、小学校に入って2学期になると、
不登校になってしまったのです。
理由は全くわかりませんでした。
母には
なんで?
どうして学校に行けなくなったの?
なんか学校であったの?
と言われ続けました。
父には毎朝、無理やり腕をつかまれ
家の中から外へ引きずられて学校に連れて行かれたことが
今でも鮮明に覚えています。
とても当時は辛かったとしか言葉が出てきません。
しかし小学2年生の頃、
合唱合奏祭という学校の行事があり、
そこでピアノの伴奏を担任の先生に頼まれ、
母と一緒に学校に行くようになります。
同じ学年にはピアノを弾ける人はわたし以外に2、3人しか
いませんでしたから、
徐々に人気者になれ(笑)学校に行くようになります。
自分の立ち位置、居場所、ポジションといったらいいのでしょうか。
それがなんとなく確立されてきたのです。
そこから
気付いたら学校に行けるようになったのです。
小学校高学年になると、
スポーツの才能が開化します。
陸上大会の長距離で入賞したり、
学校の体育の授業のマット運動では
バック転、バック宙、前宙など、体操選手ができる技を次々とできるようになります。
学校以外のプライベートはというとピアノのレッスン以外に、
公◯式、英会話、塾、お絵描き教室など様々な習い事を
母親に強制されるようになります…
友達と遊ぶ時間が他の子と比べなかったので、
そのぶん授業中は先生の話を全く聞かずに
友達にちょっかいをだしたり、消しゴムのかすを先生にぶつけたりと、
要するに問題児でした(笑)
おかげで、
中学にはいって、1年生の中間、験期末テストは100人、80番代でした。
勉強が大嫌いでしたが
体を動かすことが好きだったので
中学から始めた野球ばかりに没頭していました。
中体連が終わり、
引退以後はまた塾です。
必死でがむしゃらに勉強しましたが
思うように成績はあがりませんでした。
そして
行きたかった高校を諦め、
家から電車で通学1時間以上かけ
偏差値は45ぐらの県立高校に行くようになります。
高校でも野球ばかり、
授業中はというと、
ほとんど寝てて、テストは赤点。
顧問の先生もかなりの厳しさで、
練習もとてもハードで、
早く定年になって老後の生活を送りたいと本気で思っていました。
おかげさまで、
大学に入るまでに2年間浪人しました。
2年目は、
自分を追い込もうと、当時持っていた携帯電話を解約し、
友達とは一切連絡を取らずに、勉強だけの環境にあえてしたのです。
結果、志望する大学に合格するも、
1年目の後半には失恋と重なり
うつ病を発症しました。
引きこもってしまったのです。
今生きている意味が全く感じられませんでした。
無気力状態です。
ここについて詳細を書くと
終わりが見えなくなるので省略します。
そしてある人との出会いをきっかけに
復帰できるようになり、
大学2年の後半からは、しっかり授業も行けるようになり
スポーツインストラクターと家庭教師のアルバイトも始めます。
家庭教師では、
いままで勉強ができなく、
不登校、引きこもり
親との関係性
そのことでたくさん悩んできたことが活かされ、
小学生中学生だけではなく、
お母さんの悩みも解決するようになり、
いままで辛かった経験がすべて
いま悩んでいる人の悩みを解決するというかたちで
プラスに変わった時でした。
ただ大学3年後半からは、
周りと同じようにとりあえず就職活動をして、
家庭教師の会社に就職することになります。
そして数社で営業経験を積んで、なぜかフィリピンに辿り着いてしまいましました。笑
毎日感謝の気持ちで開放的に生きています。
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