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リアリティ問題(トルストイ『復活』感想)

数か月前に読んで面白かった、新潮文庫のドストエフスキー『死の家の記録』の解説に、

トルストイも、『死の家の記録』をプーシキンを含めた新しいロシアの最高傑作と認め、「彼のさりげなく書かれた一ページは現代の作家たちの数巻にも匹敵する。わたしは先日『復活』のために『死の家の記録』を読み返した。なんという素晴らしい作品であろう」と語った

 (『死の家の記録』ドストエフスキー 新潮文庫 工藤精一郎訳 p565)

と書いてあって気になっていたので、初めてのトルストイ作品は「復活」を選ぶことにした。

『死の家の記録』は、ドストエフスキーの獄中体験をもとにした小説で、物語に強い展開とかはないものの、囚人の人物描写、獄中の生活の描写が圧倒的で、その描写だけで面白くてワクワクした。

そして今回読んだトルストイ「復活」も、沢山の囚人とその生活が描写されている。さらにこの作品は、貴族、商人、農民、裁判所など、ストーリーに従って様々な人間模様とその階層の制度によるしがらみを丁寧に描写している。

話は変わるが、最近、漫画を描いていて「リアリティのある作品とは?そもそもリアリティとは何か?」という疑問がでてきた。

創作の物語は、ドキュメンタリーとは違い、そもそも嘘が前提なので、ただ事実っぽいことを描くだけではリアリティのある作品にはならない。脚本、人物、絵、セリフ、設定などを使って上手く面白い嘘を作りこまないと、実在感のある、読者に感覚や思想を訴える作品にはならない。

前に、志賀直哉の「好人物の夫婦」という短編小説を読み、自分の読み切りと比較して、反省文を書いた。

自分の漫画も、志賀直哉の小説も、互いにオチ近くでヒロインが涙を流すシーンがある。しかしそこで、自分の場合は涙と共に、気障で寒いセリフを挿み、感情を溢れ出させて読者に訴えようとしている。一方、志賀直哉の場合は、セリフは相槌程度しかなく、必死に感情を抑えようとした結果、最後にじっと開いた眼から涙だけがとめどなく流れ出てくる。

説明的で不自然なセリフを使うと、人間の複雑な感覚を単純化してしまい、チープな表現へと変えてしまう。つまりリアリティがなくなってしまう。

というようなことをここでは書いていた。

(そりゃ志賀直哉と比べればどの作品でも、ある程度チープにみえるとは思うが、、、比べて反省するのもおこがましいというか、、、)

そして更に話が逸れるが、先日、自分のYouTubeで寝不足で雑談ライブ配信をしていたら、「現実とは?」という話になった。
そしてそこで「たくさんの人間のたくさんの絡み合いがあるのが現実感があるということだと思っています」というコメントを信州読書会の宮澤さんからいただいた。

信州読書会 - YouTube
(毎回、noteの文章書く時に宮澤さんの話をしている気がします!何かがわかった時のきっかけになる事が多いです!!いつも助かっております!!)

その時、自分ではその意味が掴めず、ぼけーっとした返しをして、すぐ違う話題になり、配信を切った。

そのあと、なんとなくモヤモヤと「たくさんの人間のたくさんの絡み合いが、なんで現実感に繋がるんだろう」と思いながら、トルストイ『復活』を読み始めた。

『復活』は、結婚間近の貴族ネフリュードフが、陪審員として裁判に参加することになり出廷すると、偶然被告の中に、過去に純粋な恋愛をし、その後ヤリ捨て、堕落させてしまった女カチューシャがいて、自分の過去の罪と、現在の裕福ではあるが堕落した生活を見つめ直し、カチューシャと自分を救おうと葛藤し、奔走する話だ。

自分が過去にやらかしたことと、現在との因果関係に、割と自分も悩んでしまう方なので、感情移入し、俺もついでに救ってくれよと思いながら読んでいた。

ネフリュードフは、カチューシャを何とか救おうと奔走する中で、様々な組織と様々な人物達に出会う。

具体的には、貴族社会、裁判所、刑務所、農民、役所、教会などと対峙する。そしてそこで、それぞれの立場で生活している人間と、それぞれの人生から得た一人一人の独自の価値観に触れていく。そこからまた、組織の価値観から作られている様々な制度を知っていくことになる。

ネフリュードフは、色んな人間や組織を自分の眼で、バイアスのかかっていない視点から素直に見ることで、今まで生きてきた矛盾した複雑な現実のそのままの姿がありありと見えてくる。そして現実が、支配階級が権力を維持するために、大衆から無闇に搾取をしている構造になっていることがわかってくる。

読んでいる自分も、ネフリュードフと一緒に、様々な価値観の人間と組織を見ることで、作品内の世界の仕組みを見ることになり、そして自分が生きてきた現実を、この作品に照らし合わせて、素直に見ることになる。

現実には色んな尺度の、色んな角度の価値観がある。人によって違った生活がある。複雑でわかりずらいから、単純化して一面的に捉えようとすると、恐らく自分を正当化した、現実とはかなりずれた世界が出来上がる。

『復活』の中にも、ありのままの世界を見れず、自分の都合のいい世界で生きている人間が沢山でてくる。というかほとんどのキャラがそんな感じだ。主人公のネフリュードフも、カチューシャもはじめはそんな感じだった、だが色んな人間と関わり合っていくことで、短絡的な価値観が崩れ、自分の世界を取り戻した。

創作物は、その作家自身が、世界をどう見て、どう捉えているか、どのような感覚で生きているか、どのように生きたいかなどを表現している。

だからリアリティのある作品になるかどうかは、作家自身の価値観や、現実の捉え方、感覚が問われてくる。

『復活』の自分の価値観を正当化して生きてるほとんどのキャラのように、現実に対して単純な認識しかもっていない人間は、単純で安易な表現をする。そしてリアリティの無い作品が出来上がる。

逆に、最後のネフリュードフのように、現実をありのまま、複雑だけどシンプルに認識している人間は、複雑で自然な表現をする。だからリアリティのある作品が作れる。

と、今の俺の認識力では、『復活』を読んで思った。

志賀直哉『好人物の夫婦』では、人間の感覚の機微からくるリアリティを自分なりに学んだが、今回のトルストイ『復活』では、たくさんの人間の立場、価値観の絡み合いによって、リアリティのある作品が書かれていることを学んだ。

(この人間の感覚の機微と、たくさんの人間のたくさんの絡み合いというのは、たぶんなんか繋がっている気がするけど、今回はもうここまでで。)

恐らく漫画では、リアリティのある作品はそこまで求められていない。売れてる作品や、評価されている作品を読んでも、絵だけでなく人間性や世界もデフォルメされている。生活感が無いから、匂いがしない。

現実感のある作品じゃないと、何を描いてもただの空想の出来事で、自分と読者の現実を突き動かすような強度のある作品にはならないと思う。

(現実逃避としての面白さや、ワクワクはあるし、エンタメだからそういうもんで良いとも思う。ただ俺はできる限り、そうじゃない作品を目指したいと自分でおもっているだけ)

なんとか俺は、リアリティのある作品を描いて、自分が満足できるようにしたい。


(はじめの方で書いてた、『復活』を読むきっかけとなった『死の家の記録』も絡めて感想書こうとしていたんだけど、俺にはそこまでの力がなかった。『死の家の記録』も、貴族が監獄で様々な民衆と交流しあい、人間を理解していく話なので。だけど、結構内容忘れていたから、どっちみち絡めて書くのは無理だったと思う)









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