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自分の未来に期待しすぎている

2010年9月4日の自分から手紙が届いた。

その手紙は、2020年9月4日の私宛てに、かつての私がちまちま書いたもので、厳密には2020年9月4日まで開封してはいけないはずだった。が、開けた。久しぶりにクローゼットを掃除していたら、ファイルの間に挟まった白い封筒を見つけたのだ。

22歳の頃の私が書いた、32歳の自分に宛てた手紙。こういうことをハタチを超えても真面目にやっている自分の恥ずかしさは置いておいて、22歳の頃の自分、さぞかし幼稚でくだらないことばかり書いているんだろうと思ったら全く違った。

今の私よりもよほど達筆な字で、貪欲に経営学をインプットして、アウトプットして、プログラミングを習いに行って、一分一秒を惜しみながら「まだ足りない」「まだ足りない」とばかり書いていた。どうか32歳の自分は輝いていますように、十年前の今の自分に感謝していますように、とだいぶ切実な想いが綴られていた。それは意識が高いというよりも、色々と自信がなくて、未来に託すばかりだったんだろう。「もう結婚しているかな?」なんてウキウキとした話題は皆無で、「どうか夢を叶えていてほしい」という祈りにあふれていた。『おい落ち着け』とさえ言いたくなる。ストイックに貪欲に誰かと戦っていた約十年前の自分が別人のようにも思えた。のほほんとホットコーヒー啜って、いただきもののシガールをつまみながらこの手紙を読んでいるよ、今。ごめんよって。

手紙は便箋一枚びっしりで、いきなり冒頭から ”きっと今の私からしたら気軽に話せないような地位にいるだろうから、敬語でいきます” とか書かれていた(以下内容はすべて敬語で綴られる)。はからずも過去の自分から凄まじいプレッシャーを感じたのだけれど、多分当時の私は色々と追い詰められていたのだ。就活をせずに起業した当時、これでいいのだ、自分が選んだ道が正しいのだ、きっと未来は明るいのだ、と信じるしかなかったから。

だけど、どうも自分が未来に期待しすぎていたなと思う。東京に住みたいとか、年に一度は海外旅行に行ける経済力と時間を持ちたいとか、そうした小さな目標は大体クリアしているけれど、過去の自分が期待していたような「圧倒的地位!」「大会社を経営!」みたいなものは別にないし、なんなら過去の自分よりも時間にも余裕はあり、寝る間を惜しんでインプットするどころか、有識者との食事会に参加するどころか、毎晩9時には息子と眠っている。だけど、とても幸せだ、多分これまでの人生でいちばん幸せ。

成功や幸せの定義が変わったのだなと想いつつ、それでも十年前の自分が描く32歳の私があまりにも眩しかったことに胸がズキッとした。「どうか今の私が羨ましくて仕方ないと思える毎日を送っていてほしい」と締めくくられた手紙(どんな手紙やねん)をそっ閉じ。果たして今の私は、あの頃の自分に羨ましがられる人間なのか?と自問自答する。

今 XX 歳、まだまだ人生は長いんだから、ちょっとしたミラクルで今とは全く違う景色を見る日が来るかもしれない。というかそうであって欲しい。

手紙を書いていた十年前の私は、その想いがピークだった。これは私だけなんだろうか?自分の未来に期待しすぎている。それが幸せなことなのか不幸なことなのかは、人にとって捉え方が違うだろう。

だけど、今の私が十年後(41歳)の自分に手紙を書くとすれば、恐らくここまでの期待は膨らませていないと思う。ということは、年々この期待は薄くなっていくということ? ”まあこんなもんでしょ” が増え、未来への期待は小さく萎んでいくばかり? それが人生だとしたら結構寂しい。もちろん自分の努力次第だと思うけれど、努力だけではなんともならないこともある。そんなことを悟りまくった先にあるものとは。

・・・・・

だけどふと当たり前のことに気が付く。きっと私も含めた多くの人にとっては、未来へのすさまじい希望や高すぎる期待こそが、頑張る原動力なのだ。十年後の私なら、こんなマンションもさくっと買えちゃうんだろうなーとか。そういう漠然とした期待(妄想ともいえる)に突き動かされて努力できるなら、お安いものだ。そのおかげで「こんなもんか」だけど「なんか幸せ」と思える毎日を手に入れられるんだから、、、。

そんな想いを巡らせながら、懲りずにまた筆を執る。いまの私が41歳の私宛てに書く手紙はずいぶん内容が変わりそうだ。少なくとも全編タメ口で良いだろう。

これが大人になるっていうことなんですかね、先生?

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